○道の駅:きんぽう木花館の奥の方に建っているのが、南さつま市歴史交流館金峰である。これまで、何回か訪れたことがある。随分久し振りなので、今回も見学して来た。
○歴史交流館金峰で頂戴したパンフレットには、次のようにあって、これを読むと一通り、歴史交流館金峰が理解できる仕組みになっている。
歴史交流館金峰
かつて、このまちの平野部には
入り海が広がっていた。
そこは人々の日々の生活を
支える場であり、
はるか遠い地域との
交流の門戸となる場でもあった。
入り海と交流が育んだ歴史と文化
①木花咲耶姫の砂像
②中国製陶器 水注
③合せ口甕棺
④入り海シアター
⑤原始・古代の金峰
⑥阿多隼人と律令国家
⑦海外との交易
⑧持躰松遺跡と中世の世界
⑨金峰山と観音寺
⑩田の神さあ
⑪田布施郷絵図
⑫竹細工と阿多タンコ
○パンフレット表紙には、
さあ、太古の息吹をかんじましょう
とあって、歴史交流館金峰が目指すものが何であるかを表現している。端的にそれを表現すれば、
入り海と交流が育んだ歴史と文化
と言うことなのだろう。
○ここで言う入り海とは、万之瀬川河口を意味するのであろう。河口とは言っても、現在の万之瀬川河口とは違って、道の駅や尾下集落、宮崎集落辺りまでの広大な地域を指す。それが入り海と言うことではないか。
○つまり、尾下集落や宮崎集落辺りまで、海が来ていた。その入り海を中心に人々は生活していた。それが、『入り海と交流が育んだ歴史と文化』と言うことなのであろう。
○この地に、阿多地名が残っていることから、ここだけを阿多地域とすることには、些か疑問を抱く。阿多地名は、國名ともなっているほどの大地名である。それを何の根拠もなく、ここだけに限定することはできない。地名は移動する。そのことは何処でも確認されていることである。
○ただ、此の地に古くから文化が存在していたことも間違いの無いことである。その中心は、何と言っても金峰山であろう。金峰山はその名が体しているように、修験道の山である。そのことを忘れてこの地の文化を語ることはできない。
○せっかく、歴史交流館金峰と名乗りながら、そういう話が乏しいのが気になった。このはなのさくやひめを筆頭に掲げながら、木花咲耶姫と表記するのも、いただけない。やはり木花開耶姫だろう。固有名詞の漢字をわざわざ改めると言う習慣は、日本には無い。
○それに、木花開耶姫の親は大山祇神と申し上げる。木花開耶姫がここの出身なら、大山祇神の足跡も当然、此の地に残されているはずである。そういう案内もここには見えない。木花開耶姫と彦火瓊々杵尊が出逢った場所は、笠沙の御前だと言うことになっている。その笠沙の御前の説明もここには無い。
○木花開耶姫がこの地の出身なら、そういう背景が見えて来るはずだろう。そういうものがまるでないのは、おかしい。それに阿多地名は単独ではあるまい。阿多佐多が一つの概念なのではないかと言うことは、日本語として、普通だろう。佐多は佐多岬だろう。それなら阿多は開聞岳とするのが自然ではないか。後世に、薩摩國一宮が枚聞神社であることを考慮すれば、枚聞神社の御神体である、開聞岳が阿多であることは、むしろ、当たり前だろう。
○歴史交流館金峰を訪問して、そういうことを学んだ。是非、歴史交流館金峰へお出掛けを。歴史交流館金峰から眺める金峰山や野間岳は最高である。できれば、金峰山にも参詣して欲しい。当古代文化研究所では、すでに参拝を済ませている。
・テーマ「南薩摩歴訪」:ブログ『金峰山』
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