山川港 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○2018年11月30日に、開聞岳に登った後、枚聞神社へ参拝した。その後、レジャーセンターかいもんで温泉に浸かり、一応、今日の予定は、全て完了した。時間はまだ午後2時前だったので、どこか周回して帰ることも考えた。しかし、随分、疲れていたので、そのまま帰ろうとも思った。

○取り敢えず、近くの山川に寄り道しようと思って、レジャーセンターかいもんから、車で農道をのんびりと走った。そのまま、農道を東へ進むと、山川へ行く。

○山川は天然の良港である。何しろ、火山の噴火口がそのまま港となっているのだから、深さも申し分無い。それに薩摩半島の南端に位置し、ここから先は海である。錦江湾の入り口に存在し、九州から南の島々へ行くのには、最良の港となっている。

○これまで幾度となく山川は訪れているのに、意外とブログには書いていないことに気が付いた。わずかに以下のブログくらいのものではないか。
  ・書庫「指宿探訪」:ブログ『山川港』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/34298238.html
  ・書庫「指宿探訪」:ブログ『薩州山川海雲山正龍寺跡』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/34084279.html

○上記のブログを書いた時の山川訪問は、2011年1月4日のことであった。だから、もう7年も昔の話になる。当時は正龍寺が気になり、出掛けた記憶がある。

○江戸時代、正龍寺は相当大きな寺であったことを、天保14年(1843年)の「三国名勝図会」が詳細に記録している。「三国名勝図会」を読んで、気になり、出掛けた。

○山川港に、「指宿まるごと博物館Щ垣邱措?娑篤癲廚噺世Π篤眸弔設置してあり、その中に山川港の案内があった。
      山川港(マール)
   奥行き約2辧幅やく700m。湾曲した入り江は砂洲の先端が伸びて外海の影響が少なく、湾内
  へは波が入りにくい。そのため、海面はいつもピターッとべたなぎ状態。山川港は、中世の頃から大
  型船も安全に停泊できる天然の良港として、また「風待ちの港」として栄えてきた。
   約5700年前の噴火でできた山川湾。マグマ水蒸気爆発によって火口から垂直に立ち上る噴煙。
  それに加えて火口からリング状に横殴りのベースサージも発生した。
   北・西・南側には、垂直に切り立った火口壁が生まれ、東側は火口壁が壊れて海水が流入、現在の
  湾の形ができた。火口が港になっているのは、日本では伊豆大島の波浮港と山川港の二つぐらいと言
  われている貴重な港である。

○別に、正龍寺と山川港の案内もあった。
      正龍寺と山川港
   戦国の世が治まって、鹿児島が城下に定まってくると、山川港が重要な役割を果たすようになった。
   その山川で、重要な役割を担ったのが正龍寺であった。正龍寺の開山は、京都五山の虎森和尚であ
  る。五山が日本の文化を担ったように、薩摩の文教を担ったのは正龍寺をはじめとする禅宗の寺で
  あった。山川の正龍寺や志布志の大慈寺は明との外交文書の授受に当たっていたという。
   正龍寺にはこんな逸話がある。近世朱子学の開祖と言われる藤原惺窩。徳川家康に朱子学を教えて
  いたほどの学者である。その惺窩が四書集注(古代中国の儒教の教えを説いた四冊の本に関する注釈
  書)に和訓がないのを残念に思い、自ら中国に留学し、その奥義を伝えようと考えた。薩摩に来て坊
  津を出航したが、荒天のために山川港に入り待機することに。そこで正龍寺が所蔵する四書集注の和
  点(漢文を訓読する際に、漢字の上や周囲に書き加えられた符号)の書を見て驚いたという。惺窩は
  中国に渡る必要のないことを悟って都に帰り、四書の教えを正しく講じたと伝えられている。

○ここ山川が、嘗ては日本の文化の最先端であった時代が存在することを確認することは、非常に大事なことである。上記には朱子学が述べられているだけであるけれども、実際は、私たちが学んでいる訓点も文之点と言って、薩南学派から生まれている。

○加えて、朱子学だけではなく、陽明学も日本へ移入され、後世、大きな思想的影響を日本へ与えている。そういう文化が薩摩国を経て、日本へ伝えられた時代が存在したことを理解している日本人は少ない。

○今回、久し振りに山川を訪れ、そういうことを思った。