○「邪馬台国とヤマト王権」記事が掲載されたのは、2015年5月21日の朝日新聞であった。短い記事であるので、全文を掲載しておく。
邪馬台国とヤマト王権 関係探る
連続シンポ第1回
急速に研究が進んだ古代史像を総ざらいする連続古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」
(角川文化振興財団主催、朝日新聞共催)の第1回が先月、福岡市であった。
テーマは、邪馬台国とヤマト王権をどう考えるか。邪馬台国は3世紀の日本列島のどこかにあった
とされる「幻の国」だが、それが後のヤマト政権とどう関係するのかは、長く論争の的になってきた。
討論では、列島外との交渉や交易・流通、宗教などの様々な角度から検討が加えられ、海の交易に
携わる集落の存在など、邪馬台国時代の列島は地域によってバラエティーに富む社会だったことが浮
かびあがった。九州が栄えた弥生時代から近畿中心の古墳時代への移り変わりについて、寺澤薫・桜
井市纒向学研究センター所長は基調講演で「弥生の北部九州は階層社会に突入しており、倭国と呼ん
でいい拠点があった。やがて近畿に前方後円墳が誕生した」と語った。
第2回は「騎馬文化と前方後円墳の広がり」は大阪で6月28日、第3回「ここまでわかった日本
の古代」は9月27日東京で開かれる。 (編集委員・中村俊介)
○どうやら、この古代史シンポジウムは、
・第1回:発見・検証 日本の古代(福岡)
・第2回:騎馬文化と前方後円墳の広がり(大阪)
・第3回:ここまでわかった日本の古代(東京)
と連続開催されるものであるらしい。
○シンポジウムに参加したわけでも無いから、詳細は判らないけれども、とても邪馬台国を論じるシンポジウムではあり得ない気がしてならない。
○何故なら、邪馬台国は「三国志」に書かれた史実だからである。日本では、「三国志」が真面目に読まれることはほとんどない。それが真実である。そう思っていた。
○今回、中国重慶、南充、成都を巡って来た旅行の最大の目的は、「三国志」の編者、陳寿の故郷を訪れることにあった。陳寿が生まれ育ったのは中国四川省南充市である。「三国志」を書いた陳寿がどういう生活環境に育ったかは、彼の著作を理解する上で、極めて重要なことである。
○その中国四川省南充市に、万巻楼が存在し、「三国志」の編者、陳寿を顕彰している。その万巻楼を訪れ知ったことだが、日本だけでなく、中国でも満足に「三国志」は読まれていないと言う。と言うか、日本では中国の十倍もの「三国志」関連論文が提出されていると言うのを知って驚いた。
○陳寿の「三国志」を読むと、陳寿が並みの史家で無いことがよく判る。特に巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」は、彼の最大の力作だと私は思っている。その巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」9426字の中でも、陳寿がとりわけ力を込めて書いているのが倭人条1984字であることに誰も気付いていない。倭人条1984字は、私たち日本人に対する、「三国志」の編者、陳寿の滔々としたメッセージであることを誰も理解しない。
○「三国志」も満足に読まないで、平気で邪馬台国や卑弥呼に言及して止まないシンポジウムに何の意味があるのだろうか。そう思うのは私だけなのだろうか。2015年5月21日の朝日新聞「邪馬台国とヤマト王権」記事を読んで、そういうことを思った。