李白江夏送林公上人游衡岳序 | 古代文化研究所

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○李白に、「李白江夏送林公上人游衡岳序」がある。直接、南岳衡山を詠んだものでは無いけれども、南岳衡山をよく伝える佳文である。「李白江夏送林公上人游衡岳序」は、極めて難解だが、詩人李白を理解する上で、なかなか興味深い序文である。

  【原文】
      李白江夏送林公上人游衡岳序
    江南之仙山,黃鶴之爽氣,偶得英粹,後生俊人。
    林公世為豪家,此土之秀。落髪歸道,專精律儀。
    白月在天,朗然獨出。既灑落於彩翰,亦諷詩於金口。
    閒雲無心,與化偕往。欲將振五樓之金策,浮三湘之碧波。
    乘杯溯流,考室名岳;瞰憩冥壑,凌臨諸天。
    登祝融之峰巒,望長沙之煙火。遙謝舊國,誓遺歸蹤。
    百千開士,稀有此者。餘所以嘆其峻節,揚其清波。
    龍像先輩,回眸拭視。比夫汩泥沙者,相去如牛之一毛。
    昔智者安禪於台山,遠公托志於廬岳,高標勝概,斯亦向慕哉!
    紫霞搖心,青楓夾岸,目斷川上,送君此行,群公臨流,賦詩以贈。

  【書き下し文】
      李白、江夏に林公上人の衡岳に游ぶを送る序
    江南の仙山、黃鶴の爽氣,偶英粹、後生俊人を得。
    林公世に豪家と為り、此土の秀なるも、落髪し道に歸り、專ら律儀に精す。
    白月は天に在り、朗然として獨り出づ。既に彩翰を灑落し、亦た金口を諷詩す。
    閒雲は無心にして、與に化し、偕に往く。
    將に五樓の金策を振はんと欲して、三湘の碧波に浮かび、
    杯に乘り流れを溯って、名岳に考室し、
    冥壑に瞰憩し、諸天を凌臨し、
    祝融の峰巒に登り、長沙の煙火を望み、
    遙か舊國に謝し、誓遺して歸蹤せん。
    百千の開士、此れ有る者は稀なり。
    餘の其の峻節を嘆ずる所以は、其の清波を揚ぐればなり。
    龍像先輩も、回眸し拭視せん。
    比れ夫の泥沙の汩む者、相去ること牛の一毛の如し。
    昔、智者は台山に安禪し、遠く廬岳に志を公托す。
    高標の勝概なること、斯れも亦た向慕なるかな。
    紫霞は心を搖らし、青楓は岸夾み、目は川上に斷つまで、
    君の此の行を送るに、群公の流れに臨むに、詩を賦して以て贈る。

  【我が儘勝手な私訳】
      武漢江夏から林公上人が衡岳に游学するにあたり、詩人李白が送別に贈った序文

    江南地方の神聖な山、蛇山に建つ黄鶴楼の爽やかな空気が、
      偶々、優れた若々しい美しいこの才人を育てた。
    林公は地位が高く権勢があり、この地の秀でた人物であるが、
      今は剃髪して仏門へ入り、専ら戒律と儀則に精進している。
    空には満月が昇り、くっきりとその形を浮かばせているし、
      すでに満月は次第に傾きながら、いよいよ佛様の金色を増している。
      悠然と漂泊する雲は無心で、時に形を変え、時に流れて行く。
    林公は、今まさに五鏤の錫杖を衡岳に振ろうと願い、湘水に舟を浮かべ、
      舟に乗って湘水を遡り、名岳衡岳に参籠し、
      幽谷を訪れ休息し、諸寺を渡り歩き、
      祝融峰に登頂し、長沙の町を遠望し、
      遙か武漢の江夏に感謝し、衡岳に誓言して歸蹤したいと願っている。
    百千の菩薩が居ても、こういう人物は珍しい。
    私が林公の立派な人柄を賞賛する所以は、林公に立派な行いがあるからである。
    先輩の高僧もそれに注目し、着目するに違いない。
    そもそもこのように泥や沙が沈殿するのは、九牛一毛のようものである。
    嘗て、智者大師智顗は天台山に座禅しながら、廬山に思いを馳せたと言う。
    そのような高遠高邁な造詣は実に美しいし、羨望し憧れずにはいられない。
    神仙が乗って行く紫霞に心を動かされ、川の両岸には鶏爪槭が茂る中、
      一行の影が見えなくなるまで、林公の旅行を見送るため、
      多くの人々が川に沿って群れている時、詩を詠んでそれを林公に贈る。

○道士としての李白は、よく理解しているつもりだったが、李白がこれほど仏教に通暁していることに、まず驚く。ただ、この序文は、完全に玄言詩そのものであって、知識の無い私には難解過ぎる。相当時間を掛け、奮闘努力して訳したつもりだが、誤訳や誤解が多々あるのではないか。今の私の実力がこれくらいであることを証明してくれよう。

○「李白江夏送林公上人游衡岳序」を読むと、しみじみ、詩人李白が何とも恐ろしい詩人であることを理解する。李白が得意とするのは、即興やひらめき、着想だと思っている人が多いのではないか。しかし、この序文を読むと、李白は、やはり、生まれつきの天才詩人と言うしかない。人を感動させる術を、李白はよく知っているし、よく勉強しているのに感心する。

○今回の旅行で、まず南岳衡山に参詣し、それから洞庭湖の岳陽楼や武昌の黄鶴楼、南昌の滕王閣に登り、南京から揚州、鎮江まで足を伸ばした。存分に江南旅情を満喫して来たわけだが、随所に李白の影が見え隠れした。李白は唐代の人であるにも拘わらず、結構、各地を訪れている。