築地市場 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○浜離宮の住所は、東京都中央区浜離宮庭園1-1となっている。その北隣は築地5丁目で、築地市場が存在する。浜離宮見学後、築地市場へ向かう。浜離宮を出たのは、11時過ぎであった。

○浜離宮や築地市場は、隅田川とは何の関係も無いと思われるかも知れない。しかし、浜離宮や築地市場が存在するところは、もともと隅田川河口である。よく知られる勝鬨橋のすぐ下流が浜離宮や築地市場となっている。

○浜離宮や築地市場の対岸に月島が存在したが、今では、島の様相ではなく、完全に陸続きの感じがする。その月島の一つ上流に佃島が存在した。佃島には佃大橋、月島には勝鬨橋が架かっている。

○東京湾の埋め立ては凄まじいものがある。月島の沖に晴海埠頭。更にその沖に豊洲埠頭、有明埠頭、台場埠頭、暁埠頭と続き、今では浜離宮や築地市場から10勸幣絏合に海は存在する。何しろ、浜離宮や築地市場から3匆合にレインボーブリッジが架かっているのだから。

○浜離宮大手門から築地市場正門までは、およそ500叩J發い藤隠以ほどだった。昔は新橋駅から歩いて築地市場まで出掛けていた。およそ40年振りくらいの築地市場である。

○正門から中へ入り、まず、場内市場を見物する。昔は海産物を売っている店が多かったのに、今は食べ物屋がずらりと建ち並んでいて、まるで食堂街の様相を呈している。それも市場関係者ではなく、一般の観光客が多い。加えて、外国人が多く行列を作って待っているのに驚いた。築地市場は、現在は東京でも有数の観光名所なのである。

○場内市場から場外市場へと抜け道を通って行くと、ここも中心は食堂であった。海鮮丼を食べさせてくれる店が軒を連ねて立ち並んでいた。昔は、海産物を買いに行くのが築地市場だったのに、今は海鮮丼を食べさせてくれるのが築地市場のようであった。

○ちょうど昼時であったので、「海鮮丼・まるたき新店」で、名物の海鮮丼を食べた。魚が10種類ほど盛ってあって、新鮮で美味しかった。昔はこんな豪華では無く、下町の食堂と言った風情が築地市場の食堂だったような気がする。

○今でも、たくさんの海産物の店舗も存在する。ただ、お客さんの流れは、完全に食堂の方へ移っているように感じた。それほど観光客が多い。今どき、わざわざ海産物を求めて築地市場を訪れる客は少なくなっているのだろうか。

○築地市場に最初に連れて来てくれたのは、横浜に住む叔父であった。田舎者の私を東京のあちこちに連れて行ってくれたのが、横浜に住む叔父である。その叔父の見舞いが今回の旅行の目的であった。築地市場へ来て、若かった叔父との交流を懐かしく思い出した。

○当時、叔父の会社が新橋にあって、築地市場は新橋から歩いて来ることが出来た。叔父には新橋で何度もご馳走になった。叔父は無類の温泉好きで、飲む時には、必ず最初に銀座6丁目にあった東京温泉へ行き、まずサウナへ入る。2時間もサウナで過ごし、それからライオンビアホールで渇いた喉を潤すのが恒例であった。大概、終電近くまで二人で飲んだ。当時、貧乏学生であった私には、最高のご馳走であった。

○昔、その叔父がお歳暮に塩漬けの鮭をよく送ってくれていたのを思い出した。おそらく、築地市場で買っていたに違いない。築地市場で、そういう横浜の叔父との思い出話を、今回一緒に見舞いに来た横浜の叔父の弟に話ながら歩いた。