「卑弥呼の墓」最古写真 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○2014年5月19日(月)の宮崎日々新聞第22面に、「『卑弥呼の墓』最古写真」と題した記事が載り、驚いた。寡聞にして、卑弥呼の墓が発見された事実すら知らない。これは恐ろしい報道である。

○よくよく読むと、次のような見出しが躍っているではないか。

      「卑弥呼の墓」最古写真
      奈良・箸墓古墳
      宮内庁保存:1876年撮影 墳丘鮮明

○その案内文には、次のようにあった。

   卑弥呼(ひみこ)の墓説がある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中ごろ~後半)など
  同県の天皇陵や皇族墓計44ケ所を1876(明治9)年に撮影した写真と原板が宮内庁に
  保存されていることが18日分かった。同庁書陵部によると、日本で最古の古墳写真という。

○何のことはない。箸墓古墳の古い写真が見付かったに過ぎない。それをこのような見出しを付けて、わざわざ報道する方に問題があることは言うまでもない。

○箸墓古墳の古い写真が見付かったと書いたのでは、誰も関心を示さないし、誰も読まない。それが判った上で、わざわざ、「『卑弥呼の墓』最古写真」と銘打ったのである。こういうのを詐称と言う。人を騙すのが目的である。良識有る記者なら、決して用いない卑怯な手法である。

○今どき、箸墓古墳が卑弥呼の墓だと言うのは、妄想以外の何物でもない。それも「魏志倭人伝」が満足に読めない考古学者先生の妄想に過ぎない。そんな考古学者先生の妄想を鵜呑みにして、堂々と記事にする新聞記者の不見識に驚く。

○もっとも、「魏志倭人伝」を読み解くのは至難の業である。「魏志倭人伝」の主題すら、誰も明らかにしようとしない。「魏志倭人伝」の主題が倭国三十国の案内にあることは、「魏志倭人伝」をよく読むと判る。その倭国三十国を、「魏志倭人伝」は次のように案内している。
  【倭国三十国】
    渡海三国      狗邪韓国・対馬国・壱岐国
    北九州四国    末廬国・伊都国・奴国・不弥国
    中九州二十国  斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国・
               姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
               鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
    南九州三国     投馬国・邪馬台国・狗奴国

○つまり、奈良県に卑弥呼の墓が存在することなど、あり得ない話なのである。「魏志倭人伝」は魏国が認識する倭国を、
  ・参問倭地絶在海中州嶌之上、或絶或連周旋可五千余里。
と案内している。それから考えても、奈良県が魏国が認識する倭国であることは考えられない。魏国が認識する倭国は、九州島であるとするしかない。

○そのことは、日本最古の史書である「古事記」や「日本書紀」も認識していることで、記紀では、日本国発祥の地は日向国となっている。日向国を自認して止まない宮崎日々新聞が、こういうお粗末な記事を載せているのは、何とも皮肉な話である。

○もっとも、正確には、日向国は宮崎県ではない。正確に言うと、日向国は鹿児島県と宮崎県のおおよそ全域を指す地域である。残念ながら、宮崎県は日向国の中心ではない。

○「日本書紀」巻七、景行天皇紀十七年条に、次のような和歌を載せる。
  やまとは 国のまほらま たたなづく 青垣山 籠もれる やまとしうるはし

○「古事記」中巻、景行天皇記に、
  やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣山 籠もれる やまとしうるはし
とあるものだから、誰もがこの和歌は倭建命の御歌だと信じて疑わない。しかし、「日本書紀」巻七、景行天皇紀十七年条の記述には、次のようにある。

   十七年の春、三月の戊戌の朔己酉に、子湯県に幸して、丹裳小野に遊びたまふ。時に東を望して、
  左右に謂りて曰く、「是の国は直く日の出づる方に向けり」とのたまふ。故、其の国を号して日向
  と曰ふ。是の日に、野中の大石に陟りまして、京都を偲びたまひて、歌して曰く、
    はしきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
    やまとは 国のまほらま たたなづく 青垣山 籠もれる やまとしうるはし
    命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の 白橿が枝を 髻華に挿せ 此の子
  是を思邦歌と謂ふ。

○「古事記」では、景行天皇記は、ほとんど倭建命の歌物語に終始している。つまり、「古事記」が景行天皇記とするのは、ほとんど倭建命の一代記と言うに相応しい。まるで景行天皇は活躍していないのである。

○それに対して、「日本書紀」巻七、景行天皇紀では、存分に景行天皇は活躍しているし、景行天皇紀の中心は、あくまで景行天皇にある。それは、景行天皇紀としては当たり前のことである。

○「古事記」の倭建命と、「日本書紀」の日本武尊を見比べると、まるでその記述は異なる。どちらかが後世に造作された結果であることは間違いない。結果、史実により近いのは「日本書紀」の日本武尊であることが判る。

○世の中では、
  やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣山 籠もれる やまとしうるはし
を倭建命の絶唱だと喧伝して止まない。しかし、それは造られた偶像に過ぎない。もともと、この和歌の作者は景行天皇であって、詠われた場所も、『子湯県丹裳小野』とはっきりしている。

○宮崎日々新聞も、こんなつまらない記事を載せるくらいなら、地元、『子湯県丹裳小野』へ出掛けて、景行天皇のなさったように『西を望して』みては、どうか。そうすれば、そこから何が見えるかを知ることが出来る。

○文化とは、もともと『耕す』ことを意味する。自力で何も『耕す』こともせず、安易に人の話の受け売りばかりして、それでお茶を濁すような記事は、もううんざりである。

○『子湯県丹裳小野』で、『西を望して』みれば、何が見えるか。見えるのは邪馬台国である。そんなことも知らないで、宮崎の文化を語ることは、とても出来ない。

●蛇足ながら、倭建命の御陵は、三重県鈴鹿市石薬師町の白鳥陵と、三重県亀山市田村町の能褒野陵の二つが存在する。詳しくは、以下を参照されたい。
  ・書庫「大和は国のまほろば」:ブログ『倭建命の白鳥陵』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/31797767.html
  ・書庫「大和は国のまほろば」:ブログ『倭建命能褒野墓』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/31854656.html