卑弥呼後継者の墓説・西殿塚(奈良) | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○2014年4月9日(水)宮崎日々新聞第3面に、『卑弥呼後継者の墓説・西殿塚(奈良)』の記事が載っていて、驚いた。未だに、こういう記事を載せる新聞社の見識を疑う。まるで歴史認識の無い記事である。

○記事がどういうものであるかを、先に全文を紹介しておきたい。

      卑弥呼後継者の墓説・西殿塚(奈良)
      頂上に巨大石積み檀
      宮内庁盗掘調査:大王墓構造手掛かり
   卑弥呼の後継者台与(壱与とも言う)の墓説があり、宮内庁が陵墓として管理する奈良県天理市の
  西殿塚古墳(3世紀後半~4世紀初め、前方後円墳)の前方部頂上に巨大な石積みの方形檀が築かれ
  ていたことが8日、同庁への取材で分かった。卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(同県桜井市、3世
  紀中ごろ~後半)の後円部上にも石積みの円檀があり、埋葬施設を覆う特別な施設とみられる。
   2012年に盗掘され、同庁書陵部が調べていた。ほとんどが陵墓として立ち入りを制限されてい
  る大王墓の構造を考える貴重な手掛かりとなりそうだ。
   書陵部によると、西殿塚古墳前方部の方形墳は一辺22叩高さ2、2叩C羆竧瑤東西1辰砲
  たって盗掘され、墳丘を覆う葺石(ふきいし)と似たこぶし大から人頭大の石が大量に見つかった。
   さらに下にも石が続いており、檀全体が石積みだった可能性が高い。方形檀はほかの古墳にもある
  が、大半が土檀で石積みはほとんど例がない。

○この新聞記事に拠れば、西殿塚古墳に、『卑弥呼の後継者台与(壱与とも言う)の墓説』があるらしい。それに、『卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳』であるともする。それなら、邪馬台国は畿内に存在したことになる。本当だろうか。

○もともと、邪馬台国も卑弥呼も、『三国志』魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条(通称:魏志倭人伝)に記録された史実である。その「魏志倭人伝」を離れて邪馬台国や卑弥呼が存在することは、考えられない。そんなことは歴史の素人にだって理解出来る。

●「魏志倭人伝」には、帯方郡から邪馬台国までを、
  ・自郡至女王国萬二千余里。
と規定している。また、「魏志倭人伝」に拠れば、帯方郡から末廬国までの距離数は、誰が計算しても『萬余里』となる。それなら、末廬国から邪馬台国までは『二千余里』しかない。それで、畿内まで行くことは、誰が考えても不可能だろう。

●加えて、「魏志倭人伝」には、
  ・参問倭地絶在海中州嶌之上、或絶或連周旋可五千余里。
との記録があり、魏国が認識する倭国の大きさを規定している。魏国が認識する倭国は、『周旋可五千余里』の大きさしかないのである。それで九州から畿内までを含むことは、考えられない。

●それに、魏国が認識する倭国は、『周旋』出来るのである。『周旋』と言うのは、『同じところをくるくる回る』ことを意味する。つまり、倭国は『周旋可五千余里』の孤島であることが分かる。それなら、倭国は九州島以外に考えられない。

●また、「魏志倭人伝」には、
  ・計其道里當在会稽東冶之東。
の記録もある。つまり、倭国は『会稽東冶』の東に存在すると言う。これを畿内で説明することは不可能だろう。九州ならきれいに説明出来る。そのルートを案内すると、
  【倭国在会稽東冶之東】
  ・会稽→寧波(100辧
  ・寧波→舟山群島(150辧
  ・舟山群島→トカラ列島宝島(600辧
  ・トカラ列島宝島→トカラ列島悪石島(50辧
  ・トカラ列島悪石島→トカラ列島諏訪之瀬島(24辧
  ・トカラ列島諏訪之瀬島→トカラ列島中之島(28辧
  ・トカラ列島中之島→トカラ列島口之島(14辧
  ・トカラ列島口之島→口永良部島(59辧
  ・口永良部島→硫黄島(36辧
  ・硫黄島→坊津(56辧
となる。

●同じように、「魏志倭人伝」には、
  ・所有無與儋耳朱崖同。
の記録もある。『儋耳・朱崖』は、中国海南島の郡名である。それを畿内で、どう説明することが出来るのだろうか。中国では、伝統的に『倭は百越の一つである』と言う考え方がある。つまり、百越の南端が『儋耳・朱崖』であり、東端が倭国だとするのが『所有無與儋耳朱崖同』記事の意味するところである。

●結果、三世紀に、魏国が認識する倭国三十国は、次のようになる。
  【倭国三十国】
    渡海三国      狗邪韓国・対馬国・壱岐国
    北九州四国    末廬国・伊都国・奴国・不弥国
    中九州二十国  斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国・
               姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
               鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
    南九州三国     投馬国・邪馬台国・狗奴国

●ついでに、帯方郡から邪馬台国までの道程も、紹介しておく。
  【帯方郡から邪馬台国への道のり】
    ・帯方郡→狗邪韓国     七千余里
    ・狗邪韓国→対馬国      千余里
    ・対馬国→壱岐国       千余里
    ・壱岐国→末廬国       千余里
    ・末廬国→伊都国       五百里
    ・伊都国→ 奴国        百里
    ・ 奴国→不弥国        百里
    ・不弥国→投馬国     千五百余里
    ・投馬国→邪馬台国     八百余里
    ・末廬国→邪馬台国     二千余里

◎もう、こういう考古学者先生の妄想が通用する時代では無い。それは「魏志倭人伝」を読むことによってはっきりする。陳寿の編んだ「三国志」は名著である。陳寿は見事な倭国案内をしているのだが、それを読み解くことは難しい。だからと言って、妄想はいけない。

◎箸墓古墳も西殿塚古墳も訪れたことがある。しかし、畿内に邪馬台国や卑弥呼が出現することは、「魏志倭人伝」を読む限り、あり得ない話である。考古学者先生は、もう少し、誠実に歴史を語るべきではないか。また、それを鵜呑みにして喧伝する人々の見識は疑われて仕方あるまい。

◎妄想が妄想を生む。そういう思考回路から脱却しない限り、決して邪馬台国や卑弥呼が出現することはあり得ない。まずは、初心に帰って「魏志倭人伝」を正確に読むことだろう。

◎蛇足ながら、「魏志倭人伝」は、中国寧波や会稽で読むことをお勧めする。日本でいくら「魏志倭人伝」を読んだところで、なかなか真実は見えて来ない。それは陳寿がそういうふうに書いているのだから、仕方が無い。あくまで、「三国志」は中国の史書なのである。

◎寧波や会稽を訪れたことも無い方に、「魏志倭人伝」を読み解くことは容易ではない。書物を読むことは難しい。まして、中国の史書は尚更のことである。私はこれまで寧波を五回、会稽(紹興)を三回訪問している。それでようやっと、ここまで辿り着いた。

◎尚、問題とされる西殿塚古墳は、現在、手白香皇女衾田陵として、山の辺の道に存在している。