朝日新聞出版:邪馬台国と卑弥呼の謎~その3~ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○朝日新聞出版の「週刊 日本の歴史・08:邪馬台国と卑弥呼の謎」を検証する。今回はその第3弾。第1段の西本昌弘(関西大学教授)、第2段の松木武彦(岡山大学教授)ともに、まるで「魏志倭人伝」を無視した話であった。

○第3段「纒向遺跡」の著者は、北條芳隆(東海大学教授)とあって、前書きには次のようにある。

      纒向遺跡
   古墳群の配列は祭祀の空間設計に基づいていた!
   2009年の纒向遺跡(奈良県桜井市)での大型建物の発見と、
   全地球測位システム(GPS)を使った調査から、
   初期大和政権発祥の地の全貌が見えてきた。

○何も、全地球測位システム(GPS)と言う大袈裟な物など使わなくても、龍王山(520叩砲この地でのシンボルマークであることは、土地の人であれば、以前から誰でも知っていることである。さも新発見みたいな話となっているが、この地の信仰がそのまま龍王山崇拝となっている。そのことは、龍王山と言う名からも明らかだろう。

○北條芳隆は、
  なぜ龍王山が崇拝の対象となったのか
と言いながら、肝心の信仰にまるで言及しない。この地に存在する古墳群の配列が龍王山を中心としているのは、実は当たり前な話であるに過ぎない。龍王山は釜の口山長岳寺の奥に存在するし、大和神社の元宮とされる大和神社お旅所からも登ることができる。

○現在、大和神社の御祭神は、「日本大国魂大神・八千戈大神・御年大神」となっている。鎮座地も天理市新泉町星山で、祭殿の向きも西向きで、本来の形態をまるで見失っている。本来、大和神社は中山町の大和神社お旅所付近に存在し、神社の向きも東向きであったと思われる。もちろん、そのご神体は龍王山そのものであったに違いない。

○北條芳隆が、その範囲を、北の西山古墳から南の箸墓古墳までに規定しているのは、興味深い。北條芳隆は、その理由について、
   ではなぜ龍王山が崇拝の対象となったのか。それは奈良盆地に本拠地を定めた初期倭王権・大和政
  権にとって、龍王山は朝日が昇る方角の山並みだったからであり、その方角にそびえる山頂に「始祖
  霊の住み処」ないし始祖霊との交信可能な場所を求めたからにほかならない。
と述べる。

○箸墓古墳の真東、500辰个りのところに、井寺池と言う上下二つの溜池が存在する。ここでは見事な日の出を見ることが出来ると言うので、写真愛好家の中では、よく知られた場所となっている。

○2010年4月4日に、暗いうちにホテルを出て、井寺池まで行き、日の出を待ったことがある。なかなか日が昇らず、結局、太陽が昇ったのは8時過ぎであった。
  ・書庫「大和は国のまほろば」:ブログ『味酒 三輪山』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/31929724.html  

○井寺池では、三輪山のちょうど山頂あたりから日が昇った。季節によって、相当差があるとは思うけれども、箸墓古墳あたりで、龍王山あたりから日が昇ることはあり得ない話である。

○2011年にも、10月6日から8日に掛けて、桜井駅から奈良駅まで、山の辺の道を歩いて来た。およそ20劼瞭残?任△襦E喘罅△△舛海糎物しながらの散策であるから、丸二日半を費やした。その時のことについては、以下のブログに書いている。
  ・書庫「山の辺の道」:70個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1202881.html?m=l

○北條芳隆が言うように、纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群、杣之内古墳群が龍王山を奉祀する人々によって形成されたのであるならば、大きな意義がある。しかし、纏向古墳群は明らかに三輪山に隣接する古墳群であり、杣之内古墳群も石上に存在する古墳群であって、それを同一視するには、相当無理がある。それは山の辺の道を歩いてみれば、容易に誰にでも納得されることである。

○大和神社や釜の口山長岳寺は、その龍王山信仰のもとに発生したものと思われる。山の辺の道を歩いてみると判るのだが、山の辺の道は出雲神の歩いた道と言うしかない。それほど、出雲神の足跡が数多く見られる。このことについては、以下を参照されたい。
  ・書庫「山の辺の道」:ブログ『出雲神の歩いた道』
   http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35848835.html

○出雲神の正体が何であるか。それは磐座信仰に他ならない。長岳寺の山号である「釜の口山」も、本当は『がまのくちさん』なのではないか。『ガマ』は『かまくら』の意であり、洞穴を意味する。

○三輪山が出雲神を斎き祀り、石上神宮が出雲神を斎き祀る。その間に存在する龍王山信仰が出雲神以外であることの方が無理がある。

○そういうふうに考えると、北條芳隆が指摘する古墳群は、全て出雲神を斎き祀るものであるとするしかない。もともと、大和国一の宮である大神神社を筆頭に、大和国全体が出雲神の占有地となっている。

○北條芳隆は考古学者であるからか、一切、そういうことを考慮しないで論を説く。それはあまりに無謀な話である。何も大袈裟に『始祖霊』などに言及する必要性はまるでない。それは古墳群を形成した人々が出雲神を信奉した人々であるに過ぎない。

○文化は総合体であり、集合体である。古墳群を形成した人々がどういう信仰を持っていたかは、その後の信仰からも窺い知ることができる。古墳群はその文化の名残に過ぎない。

○考古学者が遺物に終始している限り、こういう視点は決して生まれない。古墳群は文化の遺物なのである。そういう見方ができないと決して歴史は見えて来ない。

○纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群、杣之内古墳群などを形成した人々が出雲神を斎き祀る人々であったことの意味は大きい。それがどういうことを意味するか。本当は、そういうふうに考えるべきではないか。

○考古学者が言うように、三世紀に前方後円墳が畿内に成立していたのであれば、それは卑弥呼の墓が畿内に存在しないことの証明になる。実際、「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国が畿内に存在したことはあり得ない話である。

○関西大学教授、西本昌弘は、「週刊 日本の歴史・08:邪馬台国と卑弥呼の謎」の第1段で、
   魏晋代の1里は約434メートルであったから、これで計算すると、「1300余里」は約564
  キロとなり、不弥国から564キロかなたにあった邪馬台国は畿内方面に求めることができる。
と平然とおっしゃる。それなら、
  ・狗邪韓国~対馬国:千余里(実距離数:114辧泡唯苅械喚
  ・対馬国~壱岐国:千余里(実距離数:55辧泡唯苅械喚
  ・壱岐国~末廬国:千余里(実距離数:27辧泡唯苅械喚
となって、まるで実情に合わない。それは陸上であっても同じである。
  ・末廬国~伊都国:五百里(実距離数:32辧泡唯横隠鍬
  ・伊都国~ 奴国:百里(実距離数:8辧泡唯苅貝
  ・奴国~不弥国:百里(実距離数:10辧泡唯苅貝

○それに、不弥国から邪馬台国までは、実は『2300余里』なのである。「魏志倭人伝」が読めないと、こういう計算もできない。なかなか陳寿はしたたかで、容易にそういうことが理解できないように「魏志倭人伝」を書いている。もっとも、そういうのは、中国の史書では、当たり前のことに過ぎない。昔から『春秋の筆法』として、史家であれば、誰でもが理解していることである。

○北條芳隆には、纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群、杣之内古墳群を形成した人々が出雲神の信奉者であることがまるで理解されていない。その出雲神の出自が実は邪馬台国であることなど、想像もできないに違いない。

○大和で、大和地名が何処から出現したか。誰も説明できない。大和国に大和地名を持ち込んだのは、神倭伊波禮毘古命以外に考えられない。そういう歴史認識も無いところから、邪馬台国が出現するはずもなかろう。