王陽明:雪竇山 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○四明山は、浙江省東部に存在する山塊である。四明山の東は山陽と言い、西は山陰と称す。山陽の中心が明州=寧波であり、山陰の中心が会稽=紹興である。四明山など、ほとんど日本とは関係ないと思われるかも知れない。しかし、比叡山にも四明岳が存在する。「ウィキペディアフリー百科事典」が案内する『比叡山』にも、
      比叡山
   比叡山(ひえいざん)とは、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都
  市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二
  峰から成る双耳峰の総称である。大比叡の一等三角点は大津市に所在する。高野山と並び古くより信
  仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる。別称は叡山、北
  嶺、天台山、都富士など。
とあるように、仏教に於いて、四明山は重要な地名となっている。薩南学派の祖とされる桂庵玄樹に、『遇舊』詩があって、その詩中に四明の名がある。
    遇舊
  途中適遇四明人
  一笑如同骨肉親
  可有扶桑新到客
  報言東魯送残春
このことについては、以下を参照されたい。
  ・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『桂庵玄樹の詩』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/11134023.html

○中国の検索エンジン「百度」の、『百度百科』が載せる『王守仁』の記事の中に、『雪竇山』詩が紹介されている。その雪竇山は四明山の山名の一つである。王陽明が雪竇山に参詣した際の様子を詠ったものである。

  王守仁的遊足還到奉化雪竇山,他写的《雪竇山》詩明麗、秀抜。数百年来被人們伝誦不息。

      雪竇山
        王陽明
    窮山路断独来難
    過尽千渓見石壇
    高閣鳴鐘僧睡起
    深林無暑葛衣寒
    壑雷隠隠連岩瀑
    山雨森森映竹竿
    莫訝諸峰倶眼熟
    当年曾向画図看

  【書き下し文】
      雪竇山
        王陽明
    山を窮むる路は断にして、独り来ること難し。
    千渓を過ぎ尽きるころ、石壇見はるる。
    高閣の鳴鐘、僧の睡りを起まし、
    深林に暑さは無きも、葛の衣は寒し。
    壑雷は隠隠として、岩の瀑は連なり、
    山雨は森森として、竹の竿は映じる。
    訝る莫き諸峰、倶に眼に熟く、
    当に年曾々向かひて、図に画きて看るべし。

  【我が儘勝手な私訳】
      雪竇山
        王陽明
    雪竇山へ向かう道は険しく、一人でここを訪れることは到底難しい。
    幾つもの渓谷を通り過ぎ、渓谷が果てるあたりで、ようやく雪竇寺の石壇が現れる。
    雪竇寺は五山十刹の一つに数えられる名刹で、谷には寺の梵鐘が鳴り響いている。
    雪竇山は深山だから、夏の暑さは凌げるだろうが、冬の寒さは相当厳しいに違いない。
    深い渓谷には巨岩が連なり、轟々と音を立てて清流が流れているし、
    険しい山には竹が群生し、青い竿が林立しているのが美しく、そこに山の雨が降る様
    はまるで静かそのものである。
    どのくらい高く奥深いとも検討も付かない四明山の山々は、どの山も印象的で、
    当然、私はその風景を画に描いて、自分の書斎に飾り、年中その画を見ては楽しんでいる。

○多分、信仰心が無い限り、この詩を理解することは難しい。王陽明は決して物見遊山に、雪竇山に出掛けているわけではない。王陽明が描く雪竇山には、そういう信仰心に関する表現は何も無い。しかし、雪竇山の風景そのものが信仰の対象なのである。だから、王陽明はひたすら雪竇山の風景を描くことに専念している。

○天台山や普陀山、洛迦山、寧波の天童寺、阿育王寺、延慶寺、杭州の径山寺、霊隠寺、浄慈寺、中天竺寺などには参詣しているが、まだ四明山の雪竇寺には参詣していない。次回寧波を訪れたら、李さんに案内していただこう。

●尚、王守仁の号である『陽明』は、故郷の余姚が四明山の東にあることから付けられた号である。現在でも余姚は寧波の一部となっている。

●掲載した写真は、昨年三月に寧波の天封塔に李さんに連れられて登った際、天封塔の西側を望んだ写真。天気が良ければ、この先に四明山が見えるはず。残念ながら、あいにくの雨天であった。