旅立ち
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを
迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の
風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひ
て、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心をくるはせ、
道祖神のまねきにあひてとるもの手につかず、股引の破をつづり、笠の緒つけかへて、三里に灸すう
るより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住みかはる代ぞ雛の家
表八句を庵の柱にかけおく。
○結果、芭蕉に、
・そぞろ神のものにつきて心をくるはせ、
・道祖神のまねきにあひてとるもの手につかず、
・股引の破をつづり、笠の緒つけかへて、
・三里に灸すうるより、
そして、芭蕉が目指したものとは、
・松島の月
であったと言う。
○ところが、「奥の細道」『松島』には、
松島
抑も、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥ぢず。東南より海を
入れて、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指し、ふすものは波に匍
匐ふ。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児
孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其
の気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山づみのなせるわざにや。造化の天
工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
雄島が磯は地つヾきて海に出でたる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有り。将た、松の木陰
に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打ちけふりたる草の菴閑かに住みなし、いかなる
人とはしられずながら、先づなつかしく立ち寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。
江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寐するこそ、あやしきまで妙な
る心地はせらるれ。
松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が
うらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。且つ、杉風・濁子が発句あり。
十一日、瑞岩寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其の後
に、雲居禅師の徳化に依りて、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりけ
る。彼の見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。
とあって、松島の月に関してあるのは、
月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。
と言うことになる。これはどう考えても芭蕉の憧れた『松島の月』ではあり得ない。だから、肝心の芭蕉の『松島の月』は何処にも見えない。そんな不思議な話はない。用意周到な芭蕉にしては随分間抜けな話である。
○それで、「奥の細道」に、芭蕉の『松島の月』を探すことになる。しかし、「奥の細道」に、
涼しさやほの三日月の羽黒山
雲の峰幾つくづれて月の山
一家に遊女も寝たり萩と月
の月の句はあっても、そのいずれもがまるで芭蕉の『松島の月』に合致するものではない。芭蕉は『松島の月』を失念したのであろうか。
○そうやって「奥の細道」に、芭蕉の『松島の月』を探すと、結局、それは「山家集」にある、西行の、
松島や雄島の磯も何ならず ただきさがたの秋の夜の月
に辿り着く。つまり、芭蕉の『松島の月』は、『象潟の月』に化けてしまっていることが判る。
○芭蕉はそういう経緯を全く案内しない。それは芭蕉の読者の責務だと芭蕉は言う。それくらい読めない読者を芭蕉は、最初から相手にしない。
○芭蕉の「奥の細道」は、広く読まれていて、多くの人が芭蕉の俳諧を理解していると勘違いしている。しかし、芭蕉はそれほどお目出度い俳人ではないし、それほど分かり易い俳諧を目指しているわけでもない。お目出度い読者など、芭蕉には無縁の存在でしかない。
○つまり、芭蕉の『松島の月』は、西行の和歌、
松島や雄島の磯も何ならず ただきさがたの秋の夜の月
に拠って、『象潟の月』と化け、
象潟や雨に西施がねぶの花
と詠まれたことが判る。
○結果、「奥の細道」の花は、『象潟や雨に西施がねぶの花』句であると理解するしかない。芭蕉には、それくらいの思い入れが『象潟や雨に西施がねぶの花』句にある。これは芭蕉本人がそういうふうに指摘してることである。ある意味、『象潟や雨に西施がねぶの花』句の為に、「奥の細道」は書かれた。なかなか、そういうふうに、芭蕉の『象潟や雨に西施がねぶの花』句は評価されていない。