王籍:入若耶渓 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○中国紹興市にある会稽山大禹陵に出掛け、大禹像まで登り、再び大禹陵下まで降りて来たのは、午後4時過ぎであった。大禹陵前の湖水に夕日が映って美しい。

○この大禹陵前の湖水は会稽山の東側を流れる平水江から引いた運河で、西側の南池江と繋がっている。その平水江は、嘗て若耶溪と称されていた川である。

○確認する意味で、中国の検索エンジン百度、「百度百科」が案内する『若耶溪』を紹介すると、

      若耶溪
   若耶溪,今名平水江,是绍兴境内一条著名的溪流。溪畔青山叠翠,溪内流泉澄碧,两岸风光如画。
   相传若耶溪有七十二支流,自平水而北,会三十六溪之水,流经龙舌,汇于禹陵,然后又分为两股,
  一支西折经稽山桥注入鉴湖,一脉继续北向出三江闸入海,全长百里。
   若耶溪源头在若耶山,山下有一深潭,据说就是郦道元《水经注》中的“樵岘麻潭”。昔日的潭址已
  没入一九六四年建成的平水江水库,库区鱼鸥成群,风景秀丽。若耶溪流经平水镇,这一带以盛产珠茶
  闻名于世,解放后又新建了平水铜矿。据记载,早在两千四百多年前,薛烛曾向越王献策:“若耶之溪
  涸而铜出”。以后,欧冶子就在这里铸造宝剑。现在的平水铜矿附近,尚有铸铺山和欧治大井遗址。
   富有诗情画意的若耶溪,使历代的文人雅士流连忘返。唐代独孤及的“万山苍翠色,两溪清浅流”,
  孟浩然的“白首垂钓翁,新装浣纱女”,李白的“若耶溪畔采莲女,笑隔荷花共人语“,丘为的”一川
  草长绿,四时那得辨“等诗句,都生动地描绘了若耶溪两岸的美丽的风光。此外,如唐代的崔颢、元、
  刘长卿,宋代的王安石、苏东坡、陆游,明代的王守仁、徐渭、王思任等文人学士,也都泛舟若耶,留
  下了许多丽词佳文。

○この記事からも判るように、若耶溪は多くの文人に愛された地である。その若耶溪は、現在は平水江と名を変え、今でも残されている。時間があれば、平水江の上流、若耶溪の故地を訪れてみたかったが、今回は断念するしかなかった。

○若耶溪と言えば、何と言っても、王籍の『入若耶渓』だろう。気になって、「王籍」を検索したら、ヤフー検索でも、グーグル検索でもそのトップに出ているのは、本ブログの、
  ・書庫「奥細道俳諧事調」:ブログ『閑さや岩にしみ入る蝉の声ー句解7』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/17628299.html?type=folderlist
であるのに驚いた(2013年1月11日現在)。それほど、日本では王籍や『入若耶渓』は馴染みがないということなのだろう。

○それに、「ウィキペディアフリー百科事典」にも、王籍も『入若耶渓』も、項目自体が存在しない。実に寂しい話である。王籍の『入若耶渓』は、名詩である。

    入若耶渓
   艅艎何泛泛    艅艎(よこう) 何ぞ泛泛(はんはん)たる
   空水共悠悠    空水 共に悠悠
   陰霞生遠岫    陰霞(いんか)遠岫(えんしゅう)に生じ
   陽景逐廻流    陽景(ようけい)廻流(かいりゅう)を逐(お)ふ
   蝉噪林逾静    蝉(せみ)噪(さわ)ぎて林逾(いよいよ)静かに
   鳥鳴山更幽    鳥鳴きて山更に幽なり
   此地動歸念    此の地、歸念(きねん)を動かし
   長年悲倦遊    長年 倦遊(けんゆう)を悲しむ

 【我が儘勝手な私訳】
   人が美しく飾って乗る舟は、どうしてあんなにゆらりゆらりと揺れて落ち着きがないのだろうか。
   それに対して、自然である天空と大河とは、ともに実にのんびりゆったり落ち着いている。
   遠く高い山の頂に、雲とも霞とも知れないものが、時間とともに、次第に湧き出して来ている。
   若耶渓には、明るい陽光が差し込んで、くるくると渦を作って流れる緑の水面を照らしている。
   山々で騒がしく鳴いている蝉の声は遠く、それがまた林の静けさをますます深いものにしている。
   同じように、鳥がけたたましく鳴くのが聞こえるが、それがまた一層山の幽玄の感を増している。
   この若耶渓の風光明媚な景色を眺めていると、故郷を思う心がしきりに沸き起こるのを禁じ得ず、
   これまでずっと長年続けてきた、疲れ果てた旅が、何か、悲しく空しいものに思われてならない。

○中国の検索エンジン百度、「百度百科」が案内する『王籍』は、以下の通り。

      王籍
  【百科名片】
   王籍(生卒年不详),字文海,琅邪临沂(今山东临沂市北)人。南朝梁诗人。因其《入若耶溪》一
  诗,而享誉王籍诗史。有文才,不得志。齐末为冠军行参军,累迁外兵记室。梁天监末任湘东王萧绎咨
  议参军,迁中散大夫等。王籍诗歌学谢灵运,《南史·王籍传》称“时人咸谓康乐之有王籍,如仲尼之
  有丘明,老聃之有庄周”。
  【简介】
   王籍出身世族高门,祖父王远,宋时为光禄勋;父僧祐,为齐骁骑将军,在王氏支庶中,家世不算显
  赫。王籍“七岁能属文,及长好学,博涉有文气。乐安任昉见而称之。尝于沈约座赋得《咏烛》,甚为
  约赏”。任昉以笔体著称,沈约以诗著称,前后领骚文坛,他们的奖掖当是使王籍名声大振的重要原
  因。所以,“齐末,为冠军行参军,累迁外兵、记室。”入梁之后,曾于“天监初,除安成王主簿、尚
  书三公郎,廷尉正”(《梁书》本传)。
   由于仕途不尽得意,王籍信游山水以自遣。为此,在余姚、钱塘令任,曾遭贬黜。湘东王萧绎镇守会
  稽,引为谘议参军。其间,他常游境内的云门、天柱诸山,或累月不返,有王羲之、谢安等避居东山恣
  情山水的遗风。《入若耶溪》诗就是在其间写成的。“艅艎何泛泛,空水共悠悠。阴霞生远岫,阳景逐
  回流。蝉噪林逾静,鸟鸣山更幽。此地动归念,长年悲倦游。”自谢灵运开山水诗一派,相继描摹追踪
  者多有,但均不能达到寓玄情于山水浑然交融到一体的境地,而王籍的“蝉噪林逾静,鸟鸣山更幽”一
  联颇得谢灵运诗风的神韵,所以“当时以为文外独绝”(《梁书》本传)以至“简文吟咏不能忘之;孝
  元讽味,以为不可复得。”(《颜氏家训》)可见当时影响之大。至于后世,追摸王籍而造成新诗的如
  王维、柳宗元以及诸多画论家,大抵都从该诗得到教益。在中国文学史上,以一篇文章或一首诗歌奠定
  自己地位的人不少,王籍即其中突出一例。后湘东王守荆州,仍引为藩府谘议参军,带作塘令。然王籍
  终因仕途蹭蹬而郁郁寡欢,到职“不理县事,日饮酒,人有讼者,鞭而遣之。”(《梁书·王籍传》)
  不久,病卒。

○中国の検索エンジン百度、「百度百科」が案内する『王籍』には、以下、「《入若耶溪》赏析诗词」が続く。それほど、王籍は『入若耶渓』に拠って知られた人物と言うことになる。長くなるので略するしかない。詳しくは以下を参照されたい。
  http://baike.baidu.com/view/201570.htm

○別に、「百度百科」が案内する『入若耶溪』もあるが、これも以下を参照していただくしかない。
  http://baike.baidu.com/view/912957.htm

○「百度百科」の紹興案内に、
   绍兴,浙江首善,古称“会稽kuài jī、山阴”,舜禹之都、华夏衣冠、贵族城市、晋宋大都,有
  “泱泱大邦、群贤毕集、天子之城、国之东门、天上仙都”的美誉,表达了古往今来的人们对这座华贵
  天城的由衷赞美。绍兴是浙江经济中心之一、浙江城镇收入最高城市、国际文化旅游城市、联合国人居
  奖城市、商贸物流中转基地和华东重要的交通枢纽。元稹赞“会稽天下本无俦,任取苏杭作辈流”!又
  云“八月乘风入会稽,明月楼中吸玉笙”,“古今之大都会,越溪阆苑繁华地,仙都难画亦难书”。
とあるが、まさに、紹興は『天上仙都』と言うに相応しいし、それは『仙都難画亦難書』場所でもある。