古代の聖王:堯・舜・禹 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○司馬遷の「史記」卷二、『夏本紀第二』の禹本紀に、
  ・十年,帝禹東巡狩,至于會稽而崩。
とあるのが、紹興市の大禹陵である。

○また、同じ『夏本紀第二』、太史公曰に、
  ・或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。會稽者,會計也。
とある。つまり、帝禹は江南の地で、『會諸侯江南,計功』ろうと目論んだ。その地が『会稽山』の地名となって残っていると言うわけである。

○もっとも、そういうことについて、司馬遷は全面的に信用し、支持しているわけではない。少なくとも司馬遷が「史記」を著作した紀元前一世紀末に、各地にそういう記録や伝承が残されていた。司馬遷はそれらを記述したに過ぎないと、司馬遷自身が「五帝本紀第一」の『太史公曰』で、
   太史公曰:學者多稱五帝,尚矣。然尚書獨載堯以來;而百家言黃帝,其文不雅馴,薦紳先生難言
  之。孔子所傳宰予問五帝德及帝系姓,儒者或不傳。余嘗西至空桐,北過涿鹿,東漸於海,南浮江淮
  矣,至長老皆各往往稱黃帝、堯、舜之處,風教固殊焉,總之不離古文者近是。予觀春秋、國語,其發
  明五帝德、帝系姓章矣,顧弟弗深考,其所表見皆不虛。書缺有間矣,其軼乃時時見於他說。非好學深
  思,心知其意,固難為淺見寡聞道也。余并論次,擇其言尤雅者,故著為本紀書首。
と明記していることを忘れてはなるまい。

○また、司馬遷は紀元前一世紀ころに実際、
  西:至空桐,
  北:過涿鹿,
  東:漸於海,
  南:浮江淮,
に至り、黃帝・堯・舜・禹の足跡を求め歩いたとも記す。改めて「史記」を読み直して、司馬遷が実際的な史家であったことに驚く。

○今でも中国は『中華人民共和国』と名乗っている。それは禹の國號である夏后に基づくものである。その禹の功績を辿ると、治水であったことが判る。

○古来、越人が禹の末裔であることを称していることはよく知られている。また、紹興に大禹陵が存在し、隣の上虞には大舜廟も存在する。それなのに、禹や舜が黄河流域の人であったとすることは、かなり、不自然な気がしてならない。

○帝舜の御陵について、司馬遷の「史記」は、
  ・踐帝位三十九年,南巡狩,崩於蒼梧之野。葬於江南九疑,是為零陵。
と記す。「江南九疑」とは、湖南省永州市零陵県になる。あまりに黄河流域とかけ離れている。

○「ウィキペディアフリー百科事典」は、『夏 (三代)』について、以下のように記す。

      夏 (三代)
   夏(か、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)(B.C.2000頃~B,C.1600とされている意見もある)は、
  中国最古と伝承される王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』など中
  国の史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。殷に滅ぼされ
  た。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在可能性が見直されてきている。

○別に、「ウィキペディアフリー百科事典」には、良渚文化について、次のように載せる。

      良渚文化
   良渚文化(りょうしょぶんか)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年
  ころにみられた。
   1936年、浙江省の杭州市良渚で発掘された。崧沢文化などを継承しており、黄河文明の山東竜山文
  化との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。分
  業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。
   近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。
   また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗(ミャオ
  族)征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある。徐朝龍に
  よれば、良渚文化は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊
  する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった
  東夷后羿(こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ、のち四川盆地に移住し、
  三星堆文化を築いたとする。

○現在、中国では司馬遷の「史記」が改めて見直されている。意外と、古代の聖王『堯・舜・禹』は、越人ではなかったか。

○今回、杭州・紹興・上虞・余姚・寧波と訪れる旅行を企画し、あれこれ調べているうちに、そういうことを感じた。そして、旅行してみて、それは実感として感じたことでもある。

○禹の最大の功績が治水であるとすれば、杭州や紹興であれば、誰でも納得できることである。それを黄河流域とすることには甚だ疑問を感じる。

○「上有天堂、下有苏杭(上に天国あり、下に蘇州・杭州あり)」の言葉が示す通り、古来、中国の経済を支えて来たのは、江南の地にほかならない。おそらく、中国文明の最初も、江南の地だったと思われる。そういうことを考えながら、杭州・紹興・上虞・余姚・寧波を旅した。