柳湖松島蓮花寺 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○芭蕉の「奥の細道」『松島』を読むと、芭蕉の視点が意外なところに向いていることを発見して驚いた。芭蕉の「奥の細道」『松島』が、記録する具体的項目は、
  ・松島  ・雄島が磯  ・雲居禅師
  ・瑞岩寺  ・真壁の平四郎  ・見仏聖
であって、そこにあるのは松島の風景美ではなくて、佛蹟であることが判る。

○「奥の細道」『松島』で、二度も案内されているのは雲居禅師であるが、芭蕉の本願は決して雲居禅師ではない。芭蕉が『松島』で最も注目するのは、真壁の平四郎にほかならない。

○その前に、松島瑞巌寺の歴史について、「ウィキペディアフリー百科事典」で確認しておきたい。

      瑞巌寺
   瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町の日本三景・松島にある臨済宗妙心寺派の寺院。
  【概要】
   詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時
  代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変
  遷した。古くは松島寺とも通称された。
  【歴史】
  [天台宗延福寺 ]
   平安時代の延福寺については、南北朝時代か室町時代初期の成立と思われる『天台記』が記すだけ
  で、確かなことはわからない。それによれば、延福寺は天長5年(828年) 淳和天皇の勅願寺として
  慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺であったという。円仁が開いたという話は他に正嘉元年(1257
  年)に書かれた『私聚百因縁集』に記されている。延福寺に限らず、平安時代までさかのぼることが
  確実視される東北地方の古寺には、円仁の開山と伝えるところが多いが、事実ではないと考えられて
  いる。円仁は関東出身ではあるが活動の舞台は中央にあった。慈覚開山とされる寺は、慈覚を名目上
  の開山に立て実際に開いた僧が二世以降に下がった勧請開山とも言われる。
  [禅宗への転換]
   鎌倉時代、禅に傾倒した北条時頼は武力で天台派の僧徒を追い、法身性西を住職に据えた。『天台
  記』で、禅宗への転換は時頼の廻国伝説に付託して劇的に脚色されて伝えられている。それによれ
  ば、旅の僧として松島に来た時頼は、祭礼を見物して感動し、大声で祭を褒めた。それが祭を乱した
  として、多数の僧徒が時頼を殺そうとした。幾人かの僧のとりなしで時頼は亊無きをえて逃れた。時
  頼は岩窟で修行中の法身に出会い、天台僧を滅ぼして禅宗を広めるという密談を交わした。その後、
  千人の兵力を差し向けて天台宗徒を追い払い、法身に寺を委ねた。怒った天台宗の僧は福浦島に集ま
  って時頼を呪詛し、死に至らしめたという。
  [臨済宗円福寺]
   開山となった法身性才は、宋で修行してから帰国した僧である。彼はしばらくして立ち去り、宋の
  出身で建長寺を開いた蘭渓道隆が円福寺2代目の住持になった。以後は蘭渓道隆の弟子が円福寺に住
  した。
   臨済宗円福寺は将軍家が保護する寺社である関東御祈祷所に指定された。更に北条氏の保護を得て
  最初五山・十刹に次ぐ諸山のうちに数えられ、後に関東十刹に昇った。当時の建築物は現存しない
  が、「一遍上人絵伝」で見える。平成3年(1991年)に当時の遺構の一部と多数の遺物が発掘され
  た。他に、嘉暦元年(1326年)の雲版が伝世する。しかし、火災によって戦国時代の終わりには廃墟
  同然にまで衰退した。天正6年(1573年)頃、93世実堂の代から臨済宗妙心寺派に属した。
  [臨済宗瑞巌寺]
   江戸時代に入って伊達政宗が禅僧虎哉宗乙の勧めで円福寺復興を思い立ち、慶長9年(1604年)か
  ら14年(1609年)までの工事で完成させた。今に伝わる桃山様式の本堂などの国宝建築はこの時のも
  のである。このとき寺の名を改めて「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と称した。一時住持が不在だった
  が、寛永13年(1636年)に雲居が入り、伊達氏の保護もあって隆盛をきわめた。この際、それまで瑞
  巌寺とは別個に存在した五大堂が、瑞巌寺の管理下に入った。政宗の隠し砦という説もある。

○芭蕉が『松島』で案内する見仏聖は雄島が磯に居住したとされる僧であり、真壁の平四郎と雲居禅師は瑞巌寺の僧である。芭蕉の時代には雲居禅師は入寂して瑞巌寺にいなかったが、瑞巌寺当代の高僧として、芭蕉はその名声を聞いていたものと思われる。

○松島臨済宗円福寺の開山となったのが、法身性西である。俗名は真壁平四郎。常陸国真壁郡猫島村出身の入宋僧で、径山寺の佛鑑無準範禅師に師事した。径山寺は、杭州に存在する禅寺で、五山の筆頭。「百度百科」は、次のように載せる。

      径山寺
   在浙江余杭径山镇径山。初建于唐,南宋时香火鼎盛,是江南五大禅院之首。规模极为宏大,有寺僧
  1700余众,寺庙建筑1000多间。寺殿由于战乱和失修,原有建筑基本无存,现仅剩钟楼一座,内悬明永
  乐元年大钟一口,宋代铁佛三尊,元至正年山历代祖师碑一块。

○南宋時代(1127~1279)の実質の首都は臨安だと言われる。臨安は杭州の別称である。北条時頼が天台僧徒を追い、臨済宗円福寺を創建したのは1250年ころとされる。当時、中国には多くの僧が渡っていたことは、「来日宋朝僧人一览表」「名留史册的入宋僧」等で確認されている。

○前に、白居易に、「西湖晩歸回望孤山寺贈諸客」詩があることを紹介した。
  ・ブログ「白居易:西湖晩歸回望孤山寺贈諸客」
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37289187.html

    西湖晩歸回望孤山寺贈諸客
           唐:白居易
    柳湖松島蓮花寺
    晩動歸橈出道場
    盧橘子低山雨重
    栟櫚葉戰水風涼
    煙波淡盪搖空碧
    樓殿參差倚夕陽
    到岸請君回首望
    蓬萊宮在海中央

  【書き下し文】
    西湖晩歸、孤山寺を回望して諸客に贈る
            白居易
    柳湖、松島の蓮花寺、
    晩に動ぎ、歸橈より道場を出づ。
    盧橘子は低く、山雨は重く、
    栟櫚の葉は戰き、水風は涼し。
    煙波は淡盪して、空碧を搖する。
    樓殿は參差して、夕陽に倚つ。
    岸に到りて君に請ふ、首を回望せんことを。
    蓬萊宮は、海の中央に在り。

  【我が儘勝手な私訳】
    杭州西湖の中に存在する孤島に建つ蓮華寺。
    暮れ方になって、私は一人、所用で急に舟で寺を発つこととなってしまった。
    蓮華寺境内には、枇杷の実が黄色く実っていて、雨に打たれている。
    棕櫚の大きな葉は、西湖から吹く風にはためいて、音を立てている。
    舟を湖水に浮かべると、西湖には薄靄が掛かって、碧空を揺すっている。
    山の緑を背景に、蓮華寺の楼閣が不揃いに夕陽に照っているのが望める。
    私は貴方がたにお願いがある。貴方がたのお帰りの際には、
    杭州側の湖畔に辿り着いたら、是非とも西湖を振り返って欲しい。
    そうすれば、貴方がたは、今まで蓬莱宮に居たことを実感できるのだから。
    所用で蓬莱宮を出て来た私には、蓬莱宮に居る貴方がたが何とも羨ましい。

○この詩で、白居易が詠う、
    柳湖松島蓮花寺
    晩動歸橈出道場
は、杭州西湖に浮かぶ孤島のことである。そこは松島と言い、蓮華寺が存在する島で、白居易はその島を
蓬莱宮だと案内する。

○意外と、松島の名は、ここから来ているのかも知れない。先日、杭州西湖を訪れ、西湖に浮かぶ孤島を眺めながら、そう思った。松島の名は、日本ではほとんど、普通名詞に近い。それでも、芭蕉の「奥の細道」『松島』を読むと、芭蕉は白居易の「西湖晩歸回望孤山寺贈諸客」詩を読んで、そういうふうに思ったのではないかと感じた。だからこそ、芭蕉は「奥の細道」『松島』を、ああいうふうに表現したのではないか。