じゃがたらお春 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○狭い長崎市の中で、聖福寺の境内は比較的広い。山門を入ると、すぐ先の正面は山面となっているので、左折するしかない。その先右手に惜字亭、左手は山面を登る石段となって、天王殿へと続いている。

○聖福寺の天王殿は、まさしく、聖福寺の正門と言った感じで、天王殿の正面には、庭を距てて大雄宝殿が存在し、左手には鐘堂、右手には庫裏がある。

○まず、天王殿から真っ直ぐ大雄宝殿へ向かい、参拝する。その後、左手の鐘堂の方へ向かう。左手奥に「じゃがたらお春の碑」が存在する。じゃがたらお春は、ご存じ無い方が多いかも知れない。嘗て話題になった長崎生まれの女性で、鎖国令で日本を追放された人である。ウィキペディアフリー百科事典には、次のように紹介されている。

      じゃがたらお春
   じゃがたらお春(じゃがたらおはる、1625年? - 1697年)は、江戸時代初期に長崎に在住し、後に
  バタヴィア(ジャカルタ)へと追放されたイタリア人と日本人の混血女性。ジャカルタから日本へと
  宛てたとされる手紙「じゃがたら文」で知られる。
  【生涯】
   寛永2年(1625年)、ポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の
  貿易商の子女・マリア(洗礼名。日本名不明)との間に生まれる。筑後町の親類宅に住み、容姿端
  麗、読み書きにも長けていたとされる。寛永16年(1639年)6月に発布された第五次鎖国令により、
  同年10月、長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィアへ追放された際、母・マリア、姉・お
  万と共に14歳で離日した。オランダ側の記録では、お春は「ジェロニマ」、お万は「マダレナ」とさ
  れている。この時同じ便で日本を離れた者の中には、慶長5年(1600年)にウィリアム・アダムス
  (三浦按針)らと共に日本に漂着したメルキオール・ファン・サントフォールトもいた。
   追放後、21歳のときオランダ人との混血男性で、平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結
  婚。夫はオランダ東インド会社へ入り活躍したといわれる。三男四女を儲け、1697年4月に72歳で死
  去したという記録が残されている。
  【じゃがたら文】
   冒頭の通り、追放後にジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知ら
  れる。「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ば
  れたこの手紙は、お春の少女期から若年期のいずれかに書かれたものとされ、正徳4年(1714年)に
  西川如見が著した『長崎夜話草』第一巻によって初めて紹介された。以来、募る望郷の念を少女とは
  思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価され、お春は江戸幕府により故郷と引き離された
  悲劇の少女として知られることとなった。明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し
  「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べているほ
  か、昭和14年(1939年)にはじゃがたら文を下敷きとして歌謡曲「長崎物語」も作られた。
   しかし発表後間もなくより「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者の大槻玄沢は、「疑うべき
  もなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべ
  し」としている。古詩を交えて書かれるなど少女が書いたとしては文章が美麗過ぎ、また「じゃがた
  ら文」と後年お春によって書かれたとされる手紙との差異も著しく、近年では偽作とほぼ結論づけら
  れている。
   ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており、遺産の分配法などが示されているほか、富
  裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっており「じゃがたら文」から想起された悲劇
  的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されている。

○じゃがたら文の真偽は別として、17世紀に、こういうグローバルな女性が居たことを評価したい。文学や物語としては悲劇ではないから、物足りないかも知れないが、17世紀に海外進出した女性の数奇な人生は、裕福で幸福な生涯であったことの方が嬉しい。

○「じゃがたらお春の碑」の揮毫は、新村出に拠るものである。裏面には吉井勇の題歌を載せる。

  長崎の 鶯は鳴く いまもなほ じやがたら文の お春あわれと

○じゃがたら文が偽作なら、吉井の題歌も徒花と化すしかない。西川如見も罪なことをしたものと言うしかない。吉井の詠歌はなかなか見事なものであるのに。

○じゃがたらお春の碑と、大雄宝殿の間に、更に山面を上る石段が続いている。その脇の壁は瓦などを組み込んだ洒落た、奇抜な壁である。境内の案内に、

      鬼壁
   明治初年廃寺となった当寺末庵の瓦等を利用して築造されたもの。いわば廃物利用の壁で、
  写真家や画家のかっこうの題材となっている。
とある。聖福寺は、禅寺であるから、平然とこういうふうに案内されているが、なかなか凡人はそう簡単に悟ることもできない。廃仏毀釈の忌まわしい記憶がどうしても過ぎる。つまらない一介の法律で、貴重な文化が恐ろしいほど喪失した悍ましい記憶を、そう簡単に消し去ることはできない。

○また、鬼壁の向かいには、「茶筌塚」がある。茶道の道具、茶筌の形をした塚である。境内の案内には、

      茶筌塚
   当山に「金森宗和」好みの茶室「徹心軒」が造られ、これに伴い、茶筌塚が建立され、
  各流派が相集り、毎年盛んな茶筌供養が行われている。
とあった。金森宗和は、宗和流茶道の祖として知られる。ウィキペディアフリー百科事典が載せる金森宗和は、次の通り。
      金森重近
   金森 重近(かなもり しげちか、天正12年(1584年) - 明暦2年12月16日(1657年1月30日))
  は、戦国武将金森可重(飛騨高山藩主)の長男。弟に金森重頼、金森重勝、酒井重澄。宗和(そう
  わ)の号で名高い。宗和流茶道の祖。子に金森方氏、山下市政室。
   慶長19年(1614年)大坂の陣で徳川方につく父可重らを批判したことで廃嫡され、母(遠藤慶隆
  娘)と供に京都に隠棲する。大徳寺で禅を学び、剃髪して「宗和」と号する。
   祖父長近、父可重らと同じく茶の湯に秀でていたこともあり、公家との交友を深めながら、やがて
  茶人として活躍をはじめる。古田重然(織部)や小堀政一(遠州)の作風を取り入れながらも、その
  茶風はやわらかく、優美であり「姫宗和」と呼ばれ京の公家たちに愛され、江戸の徳川家光に招かれ
  たこともある。(対する千宗旦への呼称は「乞食宗旦」であった)。その系譜は茶道宗和流として今
  日まで続いている。
   陶工野々村仁清を見出したことでも知られ、また、大工・高橋喜左衛門と塗師・成田三右衛門らに
  命じて、飛騨春慶塗を生み出したともされている。
   墓所は京都府京都市北区天寧寺門前町の天寧寺。

○大雄宝殿右手には、庫裏の脇に「聖福寺石門」が存在する。門の前にある案内板には、次のようにあった。

      市指定有形文化財 聖福寺石門
           指定年月日:昭和55年1月19日
   長崎草創期前に栄えた大寺、崇岳神宮寺は、盛衰を重ね無凡山神宮寺として明治を迎えたが、
  廃仏毀釈のため寺は廃滅、金比羅神社となった。この時、仏像仏具その他仏寺に関係する一切
  が撤去されたが、境内に残されていた石門を、明治19年(1886)当寺が譲り受け、現在地に
  移築した。中央に唐僧木庵筆「華蔵界」の文字を刻むが、木庵は明暦3年(1657)崇岳山頂の
  絶景を賞して「無凡山」と題し大書した。それが山頂の巨石に彫られているが、この石門もそのころ
  の建造と推定されている。
                  長崎市教育委員会(62、12設置)

○「華蔵界」は、「蓮華蔵(れんげぞう)世界」の略。 仏語。「デジタル大辞泉の解説」に、
  1 華厳経に説く、一大蓮華の中に含蔵されている世界。毘盧遮那(びるしゃな)仏の願行によって
   現出した一種の浄土。蓮華蔵荘厳世界海。華蔵世界。
  2 梵網経に説く、千葉(せんよう)の大蓮華からなる世界。盧舎那仏はその本源として蓮華座に
   座し、自身を変化させた千の釈迦が各世界で説法しているとする。蓮華胎蔵世界。蓮華海蔵世界。
  3 浄土教で、阿弥陀仏の浄土。極楽世界。
とある。聖福寺石門の向こうには、極楽浄土が存在するのであろう。別に「徹心軒」の表札も掲げられている。