金光明經の大辯天 | 古代文化研究所

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○前々回、「ウィキペディアフリー百科事典」が記載する『辯才天』について案内した。およそ、日本に於ける辯才天信仰を知るのに便利であると判断したからである。

○ただ、「ウィキペディアフリー百科事典」の辯才天案内は、極めて一般的で、辯才天信仰の起源を探るには不十分と言うしかない。もともと、「ウィキペディアフリー百科事典」の性格から言って、それは当然なのかもしれない。

○それに対して、中国の検索エンジン『百度』が案内する「辯才天」は、かなり専門的で、出典を提示するなど、極めて親切である。「ウィキペディアフリー百科事典」には、辯才天を案内するのに、『金光明最勝王経』「大弁才天女品」くらいしか経典がない。それに対して、中国の検索エンジン『百度』は、
  ・《大日经疏》五曰:
  ・《金光明》
  ・《大日经义释》七曰:
  ・《不空罥索经》十五曰:
  ・《大随求经》上曰:
  ・《最胜王经·大辩才天女品》云:
  ・《金光明最胜王经》
等の経典を案内している。

○なかなか全部の経典を紹介することも出来ないが、いくつかの経典に辯才天を見てみることにしたい。最初に紹介するのは、「金光明経」の辯才天である。

○「金光明経」について、「ウィキペディアフリー百科事典」は以下のように案内する。

      金光明経
   金光明経(こんこうみょうきょう)は、4世紀頃に成立したと見られる仏教経典のひとつ。大乗経
  典に属し、日本においては法華経・仁王経とともに護国三部経のひとつに数えられる。
  【内容】
   主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれ
  ば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる。
  【漢訳】
   この経典の漢訳については、曇無讖が412年から421年頃にかけて漢訳した「金光明経」4巻、宝貴
  などが597年に編纂した「合部金光明経」8巻、唐の義浄が自らインドから招来した経典を新たに漢訳
  した「金光明最勝王経」などがあり、「大正新脩大蔵経」経集部に所収されている。
  【日本への伝来】
   日本へは、古くから金光明経(曇無讖訳)が伝わっていたようであるが、その後8世紀頃義浄訳の
  金光明最勝王経が伝わり、聖武天皇は金光明最勝王経を写経して全国に配布し、また、741年(天平1
  3年)には全国に国分寺を建立し、金光明四天王護国之寺と称された。

○実際、「金光明経」が紹介する辯才天は以下の通り。

 【金光明經】卷第二
        北涼三藏法師曇無讖譯
    金光明經大辯天神品第七

    爾時大辯天白佛言。
      世尊。是説法者。我當益其樂説辯才。
      令其所説莊嚴次第善得大智。若是經中有失文字句義違錯。
      我能令是説法比丘次第還得。能與總持令不忘失。
      若有衆生於百千佛所種諸善根。是説法者爲是等故。
      於閻浮提廣宣流布是妙經典令不斷絶。
      復令無量無邊衆生得聞是經。
      當令是等悉得猛利不可思議大智慧聚不可稱量福徳之報。
      善解無量種種方便。善能辯暢一切諸論。
      善知世間種種技術。能出生死得不退轉。
      必定疾得阿耨多羅三藐三菩提 。

○「金光明經」『大辯天神品第七』の前には、『四天王品第六』が掲載されている。それは膨大な量なのであるのに対し、何故か、『大辯天神品第七』は、まるで取って付けたような分量となっている。上記したのが『大辯天神品第七』の全てである。

○ここから辯才天の姿を描くことは難しい。これは普通に案内される菩薩案内であって、別に辯才天である必要もない内容となっている。特記出来るのは、辯才天が『大辯天』と紹介されているくらいしかない。

○それでも古い経典であるから、一応案内する次第である。