卑弥呼と辯才天信仰 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○ウィキペディアフリー百科事典に拠れば、

      三国志
   三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年
  頃 - 280年頃)の興亡史である。
  【概要】
   「三国志」とはその名のとおり、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇したことから付
  いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿(233
  年 - 297年)によって『三国志』と名づけられた事に由来する。この時代の曹操・孫権・劉備らが争
  い合ったことは一般にも良く知られている。
   その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国
  時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、
  『三国志演義』として成立した。
   「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。

とある。その「三国志」の中に、日本のことが出ている。それが中国の史書に、詳しく日本のことが書かれた最初の記述となっている。また、それは日本が詳しく記録された最も古い記録ともなっている。三世紀の日本を記録したものは、これ以外に存在しない。日本での最初の歴史書「古事記」や「日本書紀」は、八世紀になる。

○実際、「三国志」魏書・巻三十は、『烏丸鮮卑東夷伝』となる。その中の『倭人の条』が日本では一般に、『魏志倭人伝』と称されて知られる。字数にして1984字。魏書・巻三十『烏丸鮮卑東夷伝』の全字数が9226字である。『烏丸鮮卑東夷伝』に記述されている九ケ国の中では、倭国に関する記述がもっとも多い。

○では、実際、「魏志倭人伝」はどのように倭国や邪馬台国を規定しているのだろうか。「魏志倭人伝」全文から、その主な要件を拾うと、次のようになる。

  ]楚雄濛喨?貽鄲膤で恵罅0融嚇莪拗駘元貮翰捷顱4岨?朝見者今使訳所通三十国。従郡至倭循海
   岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里至対海国。其大官曰卑狗副曰卑
   奴毋離。所居絶島方可四百余里。土地山険多深林道路如禽鹿径。有千余戸。無良田。食海物自活。
   乗船南北市糴。又南渡一海千余里名曰瀚海至一大国。官亦曰卑狗副曰卑奴毋離。方可三百里。多竹
   木叢林有三千許家。差有田地耕田猶不足食。亦南北市糴。又渡一海千余里至末廬国。有四千余戸濱
   山海居。草木茂盛行不見前人。好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之。東南陸行五百里到伊都国。官曰爾支
   副曰泄謨觚柄渠觚。有千余戸世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。東南至奴国百里。官曰兕馬觚
   副曰卑奴毋離。有二万余戸。東行至不彌国百里。官曰多模副曰卑奴毋離。有千余家。南至投馬国水
   行二十日。官曰彌彌副曰彌彌那利。可五万余戸。南至邪馬壹国。女王之所都。水行十日陸行一月。
   官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮。可七万余戸。
  ⊆郡至女王国萬二千余里。
  7彗尭士め頂濂餬療賁蠻慧譟
  そ衢無與儋耳朱崖同。
  セ果簣礎論篋潦っ羹V最珪紂或絶或連周旋可五千余里。

●邪馬台国探索は、上記の記録からしか出現しない。何故なら、邪馬台国を規定する同時代の記録はこれ以外に存在しないからである。意外に「魏志倭人伝」はよく出来ていて、これを詳細に検証すれば、綺麗に邪馬台国が何処に存在したか、説明出来る。

●多くの方が畿内や北九州に邪馬台国があるとおっしゃるけれども、それは完全な誤りである。何故なら、「魏志倭人伝」にはそういうふうに書いていないからである。「魏志倭人伝」以外に邪馬台国を記述する記録がない以上、邪馬台国は「魏志倭人伝」に拠って求めるしかない。それは当たり前の話であろう。

●きちんと「魏志倭人伝」を読めば、邪馬台国は南九州に存在していたことが判る。どう読むかは、以下に書いたので参照されたい。

◎上記,竜事から、帯方郡から狗邪韓国・対海国・一大国を経て、末廬国に至る。
  ・帯方郡→狗邪韓国=七千余里
  ・狗邪韓国→対海国=千余里
  ・対海国→一大国=千余里
  ・一大国→末廬国=千余里
ここまでで、その里数はちょうど『萬余里』となる。ちなみに、帯方郡は現在のソウル付近とされるし、狗邪韓国は韓国南岸釜山付近、対海国は対馬、一大国は壱岐、末廬国は松浦半島付近とされる。地図上、それらは確認されることでもある。

◎上記△法
  ・自郡至女王国萬二千余里。
の記述がある。これに拠れば、帯方郡から女王国(邪馬台国)までが『萬二千余里』となる。帯方郡から末廬国までが『萬余里』であった。であれば、末廬国から女王国(邪馬台国)までは、差し引き『二千余里』しかないことになる。

◎別に、上記イ法
  ・参問倭地絶在海中州嶌之上、或絶或連周旋可五千余里。
の記述がある。当時、魏国が認識していた倭国の概要は、『周旋可五千余里』の大きさであったとする。『周旋』とは、『おなじところをなんどもくるくるまわる(まわす)』意である。ちょうど、馬が杭に繋がれて廻るような状態を指す。だから、魏使は何度も倭国を周回したことが判る。

◎問題はその距離である。倭国を『周旋』すれば『可五千余里』であるとする。末廬国(松浦半島)を起点に『周旋』すれば『可五千余里』であれば、魏国が認識している倭国は、それは誰が考えても九州島とするしかない。もっとも「魏志倭人伝」は、ちゃんと魏国が認識する以外の倭国が存在することも記録している。だから、魏国が認識する倭国は、倭国全体ではなく、その一部分であることが判る。

◎上記,竜事に拠って、帯方郡から末廬国(松浦半島)まで『萬余里』であった。『⊆郡至女王国萬二千余里。』の記述から、末廬国から女王国(邪馬台国)までは、差し引き『二千余里』である。その途中に、伊都国・奴国・不彌国・投馬国を経て、邪馬台国に達すると言う。それを整理すれば、
  ・末廬国→伊都国=五百里
  ・伊都国→奴国=百里
  ・奴国→不彌国=百里
  ・不彌国→投馬国=水行二十日
  ・投馬国→邪馬台国=水行十日陸行一月
となる。方角がそれぞれ、『東南』・『東南』・『東行』・『南』・『南』とあるから、九州島を右回りに進んだことが判る。

◎この記事を読んでいくつか疑問点があることが判る。それは『二千余里』の割に、あまりに時間が掛かり過ぎることである。これなら末廬国から不彌国で、すでに『七百余里』を用している。残りは『千三百余里』しかない。それで、
  ・不彌国→投馬国=水行二十日
  ・投馬国→邪馬台国=水行十日陸行一月
はあり得ない数字である。

◎この矛盾は、よく考えると解決する。九州島右回りは遠いのである。それなら左回りすれば良い。だから、「魏志倭人伝」が記す、
  ⊆郡至女王国萬二千余里。
は九州島左回りの短距離数字で、右回りなら、
  ・自郡至女王国萬三千余里。
となるのであろう。いずれにせよ、魏国が認識する倭国は、『周旋可五千余里』と判っているからの話なのである。

◎もう一つ、『水行十日陸行一月』もあり得ない話である。おそらく、
  ・水行十日陸行一日
の誤りであろう。何故なら、魏国が認識する倭国の範囲は『周旋可五千余里』なのである。それで、『水行十日陸行一月』は考えられない。一日に十キロ歩いたら一月で三百キロになる。それでは『周旋可五千余里』に収まらない。他にも「魏志倭人伝」には邪馬台国を『邪馬壹国』と書いていたりする誤りがあるが、おそらくそれらは編者陳寿の誤りではなくて、書写段階での誤りであろう。

◎伊都国・奴国・不彌国・投馬国が何処か、気になる方もいらっしゃるだろうから、提示しておくと、
  ・伊都国=糸島市付近
  ・奴国=春日市付近
  ・不彌国=宇美町付近
  ・投馬国=旧日向国

◎つまり、邪馬台国は旧薩摩国となるしかない。そこには邪馬台国三山が聳えている。このことについては、本ブログ、
  ・書庫「大和三山」:ブログ「邪馬台国の大和三山」
  ・書庫「大和三山」:ブログ「邪馬台国三山」
等で詳述しているので、参照されたい。

◎「魏志倭人伝」には、

  其国本亦以男子為王住七八十年、倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼。
  事鬼道能惑衆。年已長大無夫婿有男弟佐治国。自為王以来少有見者以婢千人自侍。
  唯有男子一人給飲食伝辞出入居処。宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛。

と載せ、卑弥呼は、『鬼道を事とし、能く衆を惑はす』とある。それで卑弥呼をシャーマン呼ばわりする方もいらっしゃるが、とんでもない。三世紀の日本を治めるのにシャーマンに務まるはずもなかろう。卑弥呼が標榜したのは最新の文化、仏教立国にほかならない。

◎辯才天信仰の故郷が鹿児島県三島村硫黄島であると言うことは、そういうことなのである。「卑弥呼の鬼道」については、別に、本ブログ、
  ・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:ブログ「卑弥呼の鬼道」
として書いているので、参照されたい。