俊寛堂と御祈大明神社 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○これまで俊寛堂については、すでに三回書いている。

  ・書庫『三島村・薪能「俊寛」』~ブログ「俊寛堂」
  ・書庫「硫黄島」~ブログ「硫黄島の俊寛堂 」
  ・書庫「硫黄島」~ブログ「御祈大明神社」

○天保14年(1843年)に刊行された「三国名勝図会」は、巻之二十八、薩摩國河邊郡、硫黄島、神社の項目で、俊寛堂について、『御祈大明神社』として、詳しく書いている。

○硫黄島では、何でも俊寛に結びつけられているのではないかと思われる節があるから、伝承を鵜呑みにすることは危険である。第一、俊寛堂自体が、本来、御祈大明神社であったことを考えれば、俊寛堂ももとは別の神様が祀られていた可能性が高い。

○その証拠に、現在、俊寛堂に祀られているのは、自然石三個である。そのことについて、堂の前に存在する案内板には、
   村の人々は、俊寛の死を哀れみ、三人を合わせ祭って俊寛の住居地跡に御祈神社を建てた。これを
  俊寛堂と言う。
と紹介している。俊寛は硫黄島で壮絶な最期を遂げたとされるから、硫黄島で俊寛が祀られるのには理由がある。しかし、硫黄島で、ことさら丹波少将成経や平判官康頼を祀る理由など何もない。

○人が神になるには、当然、相応の理由があるのであって、硫黄島では俊寛の霊が硫黄島に害を及ぼしたことから祀られたとされる。しかし、丹波少将成経や平判官康頼が硫黄島に被害を与えたとも思われない。

○また、「三国名勝図会」の御祈大明神社についての冒頭に、

      【御祈大明神社】在番衙より丑の方、七町許。
   祭神正体大僧都俊寛にて、又成経・康頼が霊を従祀とす。(神体自然石三を安す。)社山周廻二十
  間許、俊寛山と号す。樹木生茂り、山茶最も多し。本社の東脇四五間許に、乾川あり。其辺にては、
  俊寛河原といふ。社地は谷合の如き処にて、山間の地を削平せり。

とある。この中で、「俊寛山」と言う記述が気になって、地元の方に伺ったが、そういう特定の山は存在しないらしく、多分、俊寛堂周囲の高台を指すのであろうとの返事であった。

○今回も、実際、俊寛堂を訪れ、俊寛山の様子を調べてみた。俊寛堂と岳之神神社、阿南御前の祠、徳躰神社は、すべて硫黄島三岳に囲まれた盆地状の高台に存在する。この盆地状の高台を形成しているのは、硫黄岳からの土石流であろうと思われる。現在、その全体をリュウキュウ竹が覆い尽くしてしまっているので、全容を知ることはなかなか難しいのであるが、リュウキュウ竹の群生した中に、少々の松の木が立っているし、中には枯れた松の木も多い。

○もともとは、この辺りは、一面松林であったのではないかと思われる。そのところどころに椿園が存在する。放置すれば、数年で完全にリュウキュウ竹に飲み込まれてしまいそうである。「三島村秘史」を読むと、曾ては硫黄岳を周遊する道が存在したことも判る。それも今では完全に失われている。それほど硫黄島の自然は厳しい。

○俊寛堂は長浜川の涸れた河原の脇に存在し、堂の上は高台になっていて、そこは現在、椿園となっていた。椿園から俊寛堂を見下ろすと、俊寛堂の鞘堂が透けて中の御堂まで見ることが出来た。この椿園が「三国名勝図会」が記す俊寛山なのだろうと思われた。

○案外、盛時には、硫黄島の集落は、この辺まで広がっていたのかも知れない。薪樵る山が俊寛山であったのかも。そういう集落の臨界に立つ社が御祈大明神社であり、岳之神神社であったとすると、説明が付く。