○硫黄島の長濱集落のほぼ中心に熊野神社が鎮座まします。ちょうど、長浜港から東西に真っ直ぐ島の長濱集落を二つに分断するような大きな道がある。その道を進むと、50辰曚廟荳玄蠅坊野神社の石の鳥居が建っている。大道はそのまま右に曲がり坂道となって、島の中央部へと続いて行く。
○ある意味、この大道が本来の硫黄島のメインストリートである。現在では、硫黄島に二軒しかない商店がこの大道の入り口右脇に並んでいる。
○また、その商店が存在するところが江戸時代、島津藩の御番所のあった場所であり、現在、以下のような案内板が建ててある。
御番所跡
島津藩政時代三島村は、御船手奉行
の支配下にあった。奉行は、硫黄島に
在番所を置き在番役人を派遣して島の
諸政に当たらせた。
ここが在番所の跡地である。
役人では元禄三年(一六九〇年)
伊集院賢吉氏の名が初めて見えるが、
それ以前から置かれていたらしい。
各島からの貢租とり立てなどもその
重要な仕事であった。
各島の貢租次の通り(一八二八年ころ)
・硫黄島ー硫黄二四俵(一九二〇斤:34、5圈
木綿八〇反(一反は約10、6叩
・竹島ー大名竹五〇束(一束二五本)
木綿二〇反
・黒島ー木綿二三反
三島村教育委員会
○商店を過ぎ、熊野神社の石の鳥居から、右に大道を進むと、すぐ左手に『地蔵(板碑型)』が存在する。隣に、三島村教育委員会の案内板も設置してある。
地蔵(板碑型)
地蔵は平安時代のころから「死んだ人がエンマ大王の裁きを受け、ひどい苦しみに
合うのを助けてくれる」ものと信仰された。
中世になると、丸坊主の頭をして、右手に錫杖、左手に宝珠を持った優しい地蔵が
たてられ始め、子供の安全を守ってくれるという信仰がひろまった。今もこの姿の地
蔵を各地で見ることができる。
この地蔵は竹島産の凝灰岩で刻んだ板碑型のもので、奉天乗妙典一部と思われる字
がある。
何か共通の願いを持つ奉願人の名があるが、浄西は硫黄大権現の別当寺の坊さん、
源兵衛らは硫黄島の漁師であろう。
「ह」は『か』と読み地蔵菩薩をあらわす梵字である。裏に、于時慶長十五年庚戌
八月初九日とある。西暦一六一〇年、江戸幕府が開かれて七年目にあたる。
三島村教育委員会
○案内板は、マジックインクのようなもので書かれたものなのか、相当傷んでいて、判読するのに苦労した。折角、こういう案内板が設置してあるのだから、きれいに修復してほしい。
○それ以上に驚くのは、肝心の『地蔵(板碑型)』の扱いである。地蔵(板碑型)自体が相当傷んでいるのは判るが、それに識字したものがそっくりそのまま墨書されている。これは文化財の扱いではない。おそらく誰かが識字し、墨書したものと思われるが、心ない行為である。西暦一六一〇年の貴重な文化財が台無しになっている。
○ウィキペディア・フリー百科事典で、『地蔵菩薩』について引くと、「日本における地蔵信仰」と言う項目に、以下のようにある。
【日本における地蔵信仰】
日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄
へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するように
なった。
賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守るという民間信仰もあり、子供や水子の供養でも
地蔵信仰を集めた。関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。
また道祖神と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。
○また、「地蔵菩薩に関する伝承」の項目に、『子供の守護・救済』と言うのがあって、以下のように記されている。
【地蔵菩薩に関する伝承:子供の守護・救済】
菩薩は如来に次ぐ高い見地であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界
に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世
を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。
幼い子供が親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川
を渡れず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされ、
賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子供達を守ってやり、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏
への道を開いていく逸話は有名である。
このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶
大な信仰の対象となった。
○上記にもあるように、地蔵菩薩信仰は浄土信仰に基づく。ただ、硫黄島の地蔵信仰が道祖神や賽の河原に深く関係していることを考えた場合、硫黄島の地蔵信仰は相当古いものと考えられる。
○硫黄島に存在する地蔵菩薩は偶像ではなく、板碑型の地蔵である。だから、より宗教的色合いが濃い。本来、硫黄島が道祖神の出自であり、硫黄岳が賽の河原の起源であることを考えた場合、硫黄島には地蔵菩薩がよく似合う。