倭人伝の筆者、位置誤解か | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○2011年1月18日付、朝日新聞のシリーズ『おしえて邪馬台国』では、『倭人伝の筆者、位置誤解か』と題して、以下のような記事が載っていた。

    倭人伝の筆者、位置誤解か
    サラダ大好き ポカポカ常夏
   倭の地はポカポカ暖かくて、倭人は素潜り漁が得意で、サラダが大好きで……。
  「魏志倭人伝」に描かれた倭国のイメージだ。トロピカルとまではいかないにしても、
  どうみても常夏ムードたっぷりなのだが、これ、本当に日本列島の風景なの?

○前書きは以上の通り。この後に魏志倭人伝が記す倭国の様子が描かれ、それについて、大阪府立弥生文化博物館の金関恕館長が語った話が続く。

   魏の使いが現地で見たことを描写したとは思うのですが、倭人伝の筆者、陳寿に誤解があった可能
  性もありますよね。

○更に金関恕館長の話は続く。

   中国には、観念的な独特の世界観があって、倭は古くから現実よりずっと南に割り付けられていた
  のかもしれないですね。その伝統的な歴史観に、陳寿は引きずられたのでしょう。

○浅學にして、三国志以前に倭国に関するまとまった記述が中国に存在することを知らない。金関恕館長が、
  ・倭人伝の筆者、陳寿に誤解があった可能性もありますよね
  ・中国には、観念的な独特の世界観があって、倭は古くから現実よりずっと南に割り付けられていた
と言うからには相当の根拠のある話なのだろう。まさか、単なる感想などではあるまい。

○「魏志倭人伝」の著者、陳寿を貶すのは簡単だが、実際「魏志倭人伝」をよく読むと、倭国はどう考えても南国なのであって、畿内や北九州などであるはずもない。

○それに朝日新聞の記事にもあるように、倭国は海洋国家であるから入れ墨などの習俗がある。邪馬台国はあくまで「三国志」(「魏志倭人伝」)に記された史実である。肝心の「魏志倭人伝」を無視するから勝手な想像が生まれる。実際、邪馬台国は南国なのである。それを認めることの出来ない人に「魏志倭人伝」を語る資格は無い。

○「三国志」の編者、陳寿は何とも恐ろしい史家である。『三国志』魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条で、陳寿の描いた倭国鳥瞰図は見事と言うしかない。その倭国鳥瞰図を読み解くことが出来ないのは、単に読解力が不足しているに過ぎない。

○今回の朝日新聞のシリーズ『おしえて邪馬台国』は、以下の文で終わっている。

   もし、徐福がたどり着いた地が日本列島のどこかならば、倭人伝の著者、陳寿が日本を会稽に近い
  南方の地と考えたのも、なるほどうなずける……というのは都合がよすぎる解釈だろうか。

○司馬遷の「史記」が書かれたのは紀元前一世紀のことである。それに対して「三国志」が書かれたのは三世紀のことである。その間、四百年の時間差が存在する。それを同一に扱うことは誰にも出来ない。邪馬台国を考えるのに四百年以上昔の徐福伝説を参考にするなど、全く以てナンセンスな話である。現代の日本を紹介するのに徳川家康で語るような話を誰も信用しない。

○朝日新聞の記事にはキーワードとして、『倭国の南国風記述』が案内されている。

    倭国の南国風記述
   倭人伝の風俗描写をめぐっては、女王国の南にあった狗奴(くな)国の風土を表すとの解釈や、
  倭人の入れ墨などを南方世界の習俗と結びつける意見など諸説ある。邪馬台国所在地論争では、
  倭人伝が記す日程や距離を忠実にたどれば邪馬台国が九州を突き抜けて南の海に到達してしまう
  矛盾が最大の謎だが、こんな地理観と無関係ではないのかもしれない。

○『倭人伝の風俗描写をめぐっては、女王国の南にあった狗奴(くな)国の風土を表すとの解釈』など、まるで「魏志倭人伝」を読んでいないか、読めない人の勝手な解釈に過ぎない。狗奴国は邪馬台国のすぐ隣に位置する国で、邪馬台国と離れて存在するわけではない。

○倭人の入れ墨の習俗は倭人が海洋民族であったことの証である。中国南部、越地方では入れ墨の習俗があった。ともに海洋民族であったから当たり前な話に過ぎない。

○『倭人伝が記す日程や距離を忠実にたどれば邪馬台国が九州を突き抜けて南の海に到達してしまう矛盾が最大の謎』とあるけれども、これも「魏志倭人伝」を読んでいないか、読めない人の勝手な言い草に過ぎない。

○「魏志倭人伝」をよく読むと、

  ー郡至女王国萬二千余里

と明記している。帯方郡から邪馬台国までは『萬二千余里』しかないのである。そのうち、帯方郡から末蘆国までで、ちょうど一萬余里。だから末蘆国から邪馬台国までは二千余里しかない。末蘆国が松浦半島あたりであれば、そこから二千余里先に邪馬台国が存在することになる。ちなみに、二千余里の距離は、対馬から松浦半島までの距離である。『邪馬台国が九州を突き抜けて南の海に到達してしまう矛盾』など、何処にも存在しない。大事なのは、このように、真面目に「魏志倭人伝」を読むことである。

○更に、「魏志倭人伝」には、

  ∋果簣礎論篋潦っ羹е最珪絨神箘刃⊆?璟銚淦虱称

の記述もある。倭地をぐるりと一周しても『可五千余里』だと「魏志倭人伝」は明記する。魏国が認識していた当時の倭国はこの大きさなのである。それは何も日本全体の話ではない。だから、「魏志倭人伝」は、『三国志』魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条となっている。魏国が認識していた倭国と実際の倭国とは全くの別物であることに留意する必要がある。畿内が魏国が認識する倭国に入る可能性はゼロパーセントである。そして、北九州に邪馬台国が存在する可能性も皆無である。

○判るように、三国志の著者、陳寿には誤解も矛盾も何もない。誤解や矛盾をしているのは、他でもない、日本の読者諸氏であるに過ぎない。三国志は極めて明快・簡潔に三世紀の倭国の様子を記録している。それが十七世紀を経た現在でも理解出来ない日本人は何とも愚かと言うしかない。

○詳細は、『完読 魏志倭人伝』に書いてある。、『完読 魏志倭人伝』を読めば、魏志倭人伝に基づいた倭国の鳥瞰図が紹介され、邪馬台国が何処に存在したかが案内してある。「魏志倭人伝」全文は、たかだか1984字の文でしかない。しかし、それを正確に読み解くことはそんなに簡単に出来ることではない。『完読 魏志倭人伝』は、簡単ながらそれを丁寧に案内している。