○その薩摩國一の宮は、現、指宿市開聞町に鎮座まします枚聞神社である。本ブログでは、書庫「南薩摩歴訪」の中に、
・薩摩国一之宮(枚聞神社)参拝記
・薩摩国一宮枚聞神社参拝
・枚聞神社のご祭神
・「三国名勝図会」の載せる枚聞神
・枚聞神社と天智天皇
・明治初年の枚聞神社御祭神
等、詳しく紹介しているので参照されたい。
○歴史を紐解くと、枚聞神社の御祭神ほど、混迷を尽くしている神も珍しいのではないか。薩摩國一の宮ほどの社格をもってさえ、こうである。まして、普通の神社であれば、なおさらそうであろう。現在の枚聞神社の御祭神は、枚聞神一座となっている。本来、開聞岳を齋き祀る神社が枚聞神社であろうから、今の形が最も自然なのだろう。
○大隅国一の宮は、現、霧島市隼人町に鎮座まします鹿児島神宮である。本ブログ書庫「邪馬台国その後」の中に、
・大隅国一之宮(鹿児島神宮)参拝記
として記しているので参照されたい。
○ただ、薩摩国一之宮を枚聞神社と新田神社が争ったように、一の宮は、必ずしも古代からの神社がそのままその国の一の宮となっているわけでもない。現在の大隅国一の宮とされる鹿児島神宮が、大隅国大隅郡大隅郷とされる地域とは全く異なるところに存在することも気になる。
○薩摩国国府に存在する新田神社が薩摩国一之宮を枚聞神社と争ったように、本来の大隅国一の宮は大隅国大隅郡大隅郷あたりに存在するのが自然であるような気がしてならない。かりにそうであるとすれば、本来の大隅国一の宮は志布志市安楽に鎮座まします山宮神社が有力な大隅国一の宮候補となるのではないか。
○ただ、山宮神社自身が枚聞神社同様、凄まじくその御祭神を変容させているから、山宮神社の正体を突き止めることは容易なことではない。志布志市安楽の山宮神社境内の由緒書には、以下のように記す。
山宮神社御由緒
当社の創建は元明天皇の和銅二年と伝えられ、大同二年(807)山口大明神・若宮神社・
鎮母神社・安楽神社・蒲葵御前社を合祀し、山口六社大明神として現在地に祀られた。
安和元年(968)神領五百町歩、最盛時には御祭百二十四度と記録にあり、その後、
新納・肝付・島津氏等の武将により社領の寄進、社殿の造営修理が行われ、藩政時代には、
その規模の大きさは当国随一と称された。明治にいたり郷社山宮神社となり、当地方の宗廟
として郷民の強い崇敬を受けている。
○同じ境内にある志布志町教育委員会の案内には、
山宮神社の概要
社伝によると、和銅2年(709)の創建と伝えられ、大同2年(807)6月に6社(田之浦山
宮神社=天智天皇・山口社=大友皇子・鎮母神社=倭姫・安楽神社=玉依姫・若宮神社=持統天皇・
枇榔神社=乙姫)を合祀して山口六社大明神と称していた。明治維新後、山宮神社と改められた。祭
神は上記六座で、神鏡が御神体である。
とある。
○一般に、山宮神社の主祭神は、天智天皇と言われている。それは、上記の案内にもあるように、本来、田之浦山宮神社が天智天皇を祭神としていることに拠る。田之浦山宮神社は志布志町田之浦に鎮座まします神社で、ちょうど御在所岳(530叩砲力爾砲覆襦
○だから、本来、山宮神社は御在所岳を齋き祀る神社であったと思われる。どういういきさつで、いつ頃その主祭神が天智天皇になったのかは不明とされる。
○山宮神社以外に、有力な大隅国一の宮候補としては、正一位高屋大明神社を挙げることが出来よう。正一位高屋大明神社については、江戸時代の白尾國柱著「麑藩名勝考」がもっとも詳しい。
正一位高屋大明神社(在山陵之麓三里許。此地隷内浦郷南方村。)
奉祀即彦火火出見命
附祀瓊々杵尊・葺不合尊
此神廟は景行天皇の御艸創也。鳥居に正一位高屋大明神の扁額を掲ぐ。例祭九月九日、同月十日。
此日流鏑馬あり。年中祭典凡廿七度。神社撰集曰、中御門天皇享保二年丁酉六月廿六日、授高屋神
正一位。又云宝暦十三年辛未十月廿八日夜亥刻、高屋神庿火たり。今宵戌下刻、光明一道ありて、國
見山陵に飛行、其光赫曜として山谷に射映る。又曰、高屋祠炎上、半時ばかりの前に火氣雲衢に衝入、
すさまじく見へわたりけることあり。皆郷村男女親しく見る所、今に至りて歎称をなして敬畏せり。
○「麑藩名勝考」は、この後に長い「高屋神社縁起文」と高屋神社の絵図を載せ、高屋神社に隣接する「天子山」について詳述している。興味深い記録ではあるが、あまりに長いので略すしかない。
○日向神話などを考慮すれば、高屋大明神社は大隅国一の宮どころの沙汰ではない大社でなくてはならない。しかし、何故か、その扱いはなされていない。神号だけは、正一位高屋大明神となっているけれども。
○一宮制度は律令制度の確立によって成立したとされる。時期的には、七世紀後期から十世紀あたりまでである。大隅國の成立は和銅六年(713年)のこととされるから、大隅國に限っては、八世紀以降になろう。当時、すでに大隅国一の宮は、現、霧島市隼人町に鎮座まします鹿児島神宮だったことが確認される。
○その時期、山宮神社は地元民の尊崇する社に過ぎず、正一位高屋大明神社も大隅国府に認知されない社であったと考えられる。