御祈大明神社 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○「三国名勝図会」巻之二十八、薩摩國河邊郡、硫黄島、神社の項目に『御祈大明神社』の記事を載せている。

      【御祈大明神社】在番衙より丑の方、七町許。
   祭神正体大僧都俊寛にて、又成経・康頼が霊を従祀とす。(神体自然石三を安す。)社山周廻二十
  間許、俊寛山と号す。樹木生茂り、山茶最も多し。本社の東脇四五間許に、乾川あり。其辺にては、
  俊寛河原といふ。社地は谷合の如き処にて、山間の地を削平せり。
   往古俊寛の石塔、此河原の上にありしに、雨水洗崩して其儘に打捨ありしが、其遺霊にて、神怪の
  事ありしが、土人恐れて、今の地に當社を建立せりとぞ。其墓の側に、舊大松樹一株ありしに、文化
  の頃、大風に吹倒されて、今其朽木猶倒伏して残れり。正祭十二月二十八日なり。前晩より斎戒し、
  熊野権現御供所へ一宿し、神膳を調へて、是を供す。
   又七月十五日の夜は、俊寛への祭祀として、土人大小の松明二を竹にて作り、當島の港濱の持ち出、
  沙を穿て是を立置、火を燃せり。其大松明は、長さ九尋許、下の方径り三尺許、其上は小く作り、径
  り一尺許なり。其小松明は児童中より出す。さて土民尽く集会して肥松に火を付て、下より松明の上
  に投挙て、火の付を手柄とし、競ひ争へり。其夜は土人庄屋の庭にて、終夕舞躍をなす。
   俊寛を御祈大明神といふは、成経・康頼は帰洛して、俊寛のみ、此島に留まりし故、俊寛自ら我神
  を此島に留んと祈誓せし事、神託ありしに依て、御祈大明神社と号すといへり。當島庄屋長濱氏、當
  社の代宮司たり。(此長濱氏は、當島庄屋世家にて、當島諸神社社司の長濱氏と同族と見えたり。)
  土人俊寛の事跡、及び當島の内足摺石、投筆石等の遺跡に至り、知る者多くして甚だ其霊を崇敬せり。

○御祈大明神社の記事を読むと、明らかに、これは現在の俊寛堂のことである。だから、俊寛堂は、本来、俊寛のお堂であったのではなく、御祈大明神社と言う社であった。祭神の正体も、はっきり『大僧都俊寛』と明記している。丁寧に割註に、『神体自然石三を安す。』とも記している。

○前に、『硫黄島の俊寛堂』と題して書いたが、その際、俊寛堂の内部の様子を記し、写真を掲載した。俊寛堂の内部に更に祠が存在し、自然石三つがあったのが気になった。

○俊寛堂の内部の様子は、どう考えても、俊寛堂と言うには極めて不自然である。俊寛堂を外から見た様は、まさに堂の様なのだけれども、実際、俊寛堂の内部には更に祠が存在する。俊寛堂は、まるで、鞘堂の感じである。

○前に、『硫黄島の俊寛堂』にも書いているが、俊寛堂が御祈大明神社であっても、俊寛堂であっても一向に構わないのだけれども、ご神体が自然石三つと言うのは、どうにも不自然である。俊寛を齋き祀るなら、どう考えても、それは俊寛像だろう。それに、平判官康頼や丹波少将成経を合わせ祀るのも、極めておかしい。俊寛が硫黄島で悶え苦しんだので、その霊が悪霊となるのは判るが、平判官康頼や丹波少将成経が硫黄島に祟りをなすなど、考えられない。

○御祈大明神社のご神体が自然石三つであることは、実見してきたことであるから、間違いない。そう考えると、俊寛堂は、御祈大明神社であって、ご神体は自然石三つである。とすれば、本来、俊寛とは関係のない神社だったのではないか。

○また、ご神体の自然石三つの脇に、古い卒塔婆が存在するのも、気になる。普通の神社であれば考えられないことである。この御祈大明神社が神仏混淆の神社であることを裏付けるものである。手にして読んで見たかったが、何しろ、初見の神様に失礼があってはならないので、遠慮した。

○御祈大明神社は、もともと、硫黄島三岳を齋き祀る社であろう。ご神体である自然石三つも、硫黄岳・稲村岳・矢筈岳のそれぞれの神であるとすれば、納得出来る話である。その後、あまりに俊寛伝説が有名になったので、いつの間にか、神様が入れ替わったものと思われる。

○そういう意味では、柱松行事も本当は、ここの神様の行事であったとすると、説明が付く。現在、硫黄島では何でも俊寛に結び付けているけれども、そうではあるまい。硫黄島には、ずっと昔から、俊寛など比べものにならない硫黄岳神が鎮座ましますのである。