安徳天皇墓所・補足 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○安徳天皇墓所について、もう少し補足しておきたい。安徳天皇墓所には、墓所について、以下のような案内板が設置されている。

      安徳天皇墓所
   元歴二年三月長門壇の浦における源平の一大決戦の果て、
  平家はついに滅び去ることとなった。
   この時、清盛の妻、二位の尼に抱かれ、千尋の海に入水されたはずの
  安徳天皇が、硫黄島に逃げ延び、しかも後年、資盛の娘、櫛匣の局を
  后として隆盛親王が誕生、その子孫は、多くの品を伝え持ち、この地に
  生きていたのである。
   平家は壇の浦の合戦、部隊を用意していたため、幸いに討伐軍からの
  難を逃れて、寛元元年(一二四三)まで隠遁生活を送った。
   この地を御前山といい、安徳天皇墓所と従臣の墓が建てられている。

○この案内板は、何処が設置したものかはっきりしない。もう少し文意が通じるように案内して欲しかった。ただ、案内板には見取り図まで示してあって、何処に誰の墓があるかまで、丁寧に案内している。それに拠ると、
  最前列中央:安徳天皇墓
  第一列:(向かって左から右へ)狭野之内侍・従四位兵衛督平吉広・従二位内大臣佐大将平吉盛・
      正二位内大臣隆盛親王・従三位参議平業盛
  第二列:(同じく左から)大納言佐の内侍・正二位内大臣佐大将平吉資・中納言平経正・
      御前山の角塔婆・(少し離れて)櫛匣の局墓所
とあった。気になるので、実際墓の脇に存在する案内板の記事も列挙しておく。こちらは三島村教育委員会と、設置者が明記してある。したがって、上記の案内板と記事内容に少し異同がある。

  安徳天皇墓:安徳天皇墓所 
  狭野内侍墓:仁安元年(1166年)丙戌生れ。寛元三年(1245年)乙巳八十一歳にて卒す。
        内大臣資盛室。但し文治三年(1187年)資盛公に給ふ。
  従四位兵衛督平吉広:
  従二位佐大将兼内大臣吉盛墓:建永元年(1206年)丙寅生れ。正元元年(1259年)己未卒す。
        五十五歳。
  正二位内大臣若宮墓(隆盛親王墓):隆盛親王俗名号左兵衛督吉英。承久三年(1221年)辛巳
        隆誕生。正応五年(1292年)壬辰薨寿七十二歳。命日三月廿二日。養母は吉盛室。
        右霊号若宮権現。只今は氏神社と申す大宮の傍に有小社也。       
  従三位参議平業盛:永歴二年(1161年)辛巳生れ。元歴二年(1185年)己巳島に来て嘉禄二
        年(1226年)丙戌膝行を煩い寛喜二年(1230年)庚寅七十歳にて卒す。室は
        芥切景成が姉なり。
  佐内侍墓:保元三年(1158年)戊寅生れ。天福元年(1233年)癸巳七十六歳にて卒す。
        大納言時忠の女。中納言経正室。
  正二位内大臣左大将吉資墓:建久元年(1190年)庚戌四月廿三日誕生。建長二年(1250年)
        庚戌卒年六十二歳。室は上総忠達が娘。
  中納言平経正墓:平治元年(1159年)己卯生れ。元歴二年(1185年)に島に来て廿七歳にて
        貞応元年(1222年)壬午六十四歳にて卒す。
  御前山の角塔婆:
  櫛匣の局墓所:

○天保十四年(1843年)刊の「三国名勝図会」は、どういうふうに記録しているのか気になったので見たら、僅かに二行記すのみでそっけない。

  【御前山】在番衙より東の方二町餘。
    原野陸田の中に、御前山といふ所あり。
    其内に古墓大小三十餘あり。是平家諸人の墓なりといへり。

○念のために、寛政7年(1795年)刊行の白尾国柱著「麑藩名勝考」と、明治4年(1871年)に刊行された「薩隅日地理纂考」も見たが、「麑藩名勝考」は何もなく、「薩隅日地理纂考」の記述はそのまま「三国名勝図会」を踏襲したものであった。江戸時代の史家たちは硫黄島の伝承にあまり関心がなかったようである。