○硫黄島の俊寛については、過去に、本ブログの書庫『三島村・薪能「俊寛」』の中で、
・平家物語「俊寛」
・赦文及び足摺
・俊寛僧都の最期
・謡曲「俊寛」
・俊寛の硫黄島
・硫黄島に立つ俊寛像
・俊寛堂
等のブログで詳細に案内している。硫黄島を代表する人物が俊寛僧都であることは言うまでもない。
○今回、東温泉から俊寛堂へ向かった。三島村の硫黄島で、薪能「俊寛」が開催されたのは、2009年5月30日(土)のことである。その際、能が行われる前に、硫黄島の俊寛に関係する場所を地元の方々に案内していただいた。その時以来の訪問である。
○東温泉から硫黄島の中心部にある交差点に向かい、それを右折して250辰曚氷圓と、俊寛堂入り口が左手に出てくる。そこから4、50辰眇覆瓩弌⊇售夏欧任△襦A芦麕れた時は、大人数であったが、今回は只一人で、他に誰もいない。ここは、山の中で、周囲には鬱蒼と琉球竹が生い茂っていて、一人では男であっても薄気味悪いところである。それに、硫黄島の集落からは1、5劼らいは離れている。
○ここに、俊寛の庵が本当に存在していたかについては、かなり疑問がある。例えば、硫黄島長浜港に建つ俊寛像の建立について、以下の説明書きがある。
「俊寛の像」
治承元年(1177年)平家討滅の密議を謀ったとして、俊寛僧都、平判官康頼、丹波少将成経は
薩摩國鬼界ケ島(硫黄島)に流罪された。
康頼、成経はその後赦免されたが、残された俊寛は長浜河原の庵でひとり露命を繋ぎながら、
望郷の念に泣き、仏に祈って赦免の日を待ち焦がれたが、叶うこと無く、絶望の果てに断食して、
治承3年(1179年)九月、三十七歳の時、朽ち果てるように往生を遂げたと言う。
島の人たちは、俊寛の死を哀れみ、庵の跡に俊寛堂を建て、毎年旧暦七月十五日に、
俊寛の送り火、柱松(はしたまつ)を灯す慰霊行事を今に伝えている。
三島村は源平盛衰の悲劇にかかわり、史跡に明らかな俊寛僧都終焉のこの島の名を広く世に伝え、
供養の念を新にするために、俊寛の像を、著名な作家木佐貫 熙氏の製作によって建立したもので
ある。
平成七年三月 三島村
○上記の記述に従えば、俊寛の庵は、『残された俊寛は長浜河原の庵でひとり露命を繋ぎながら』とあるように、『長浜河原の庵』となっている。これはどう考えても、長浜港の隣に位置する長浜浦のことであろう。現在の俊寛堂はあまりに硫黄島集落から隔離されている。
○当時の流人の生活は、平家物語や源平盛衰記が脚色しているようなものではなかったと考える方が自然ではないか。他の流人の記録を見れば、俊寛の記録だけが突出して凄まじい。おそらく俊寛の場合も、他の流人同様、島の生活は食料など十分に保障されていたし、身の回りの世話をする人も居て、恵まれたものであったと想像される。
○それに、今回、俊寛堂の扉に鍵らしきものがなく、自由に内部を見学出来ることに気付き、俊寛堂の内部を拝見したが、俊寛堂は、鞘堂で、更に内部に小さな御堂があって、その中にあるのは、三つの自然石のご神体であった。俊寛堂のご神体が三つの自然石であると言うのは納得できない。
○俊寛堂に安置されている三つの自然石のご神体が、俊寛僧都、平判官康頼、丹波少将成経であるはずもなかろう。どう考えても、これは硫黄島三岳、硫黄岳・稲村岳・矢筈岳以外は考えられない。
○加えて、堂の前の案内板には、以下のようにある。
俊寛堂(庵)
俊寛は平安時代末期の僧。安元三(一一七七)年、鹿谷荘にて平家討伐の陰謀がもれて捕らえら
れ、丹波少将成経、平判官康頼と共に、鬼界ケ島(硫黄島)に流された。治承二(一一七八)年、中
宮徳子の平産祈願のための大赦により、二人は赦免され召還されたが俊寛は一人許されなかった。
いよいよ船が出る際、海水の中を胸まで入り、船にとりつき、同行してくれるよう必死の頼みをし
たが赦免状を使者丹左衛門尉基康は、俊寛の手を払いのけて一息に船を沖に漕ぎ出させた。号泣し足
摺りをして頼んだ甲斐もなく只一人残された俊寛は茫然として海を眺め、海岸に佇んだと言う。翌日
は成経が形見にくれた夜具と康頼の形見の品、法華経とを背負い、とぼとぼと自分の粗末な庵へ帰っ
た。俊寛は治承三(一一七九)年九月、娘の身を案じつつ絶望のはてに絶食して念仏を唱えながら三
七歳で死んだ。
村の人々は、俊寛の死を哀れみ、三人を合わせ祭って俊寛の住居地跡に御祈神社を建てた。これを
俊寛堂と言う。
俊寛の霊を祭る柱松の行事は、俊寛の送り火として民俗学的に貴重な盆行事である。
今なお長浜海岸で硫黄島地区の幼老男女総出の行事として盛大に行われ、その高さは二十辰砲盖
び、空を焦がすその炎の光は遠く屋久島からも見えると言う。
三島村教育委員会
○上記の記録によれば、『村の人々は、俊寛の死を哀れみ、三人を合わせ祭って俊寛の住居地跡に御祈神社を建てた。これを俊寛堂と言う。』と言うことになっているが、俊寛を祀るのに、丹波少将成経や平判官康頼はまるで無関係であろう。
○さらに、柱松の行事を、『俊寛の霊を祭る柱松の行事は、俊寛の送り火として民俗学的に貴重な盆行事』としている点も、日本中に散在する柱松の行事からして、甚だ疑問というしかない。柱松行事は全国に存在するものであって、硫黄島固有の行事では無いことに留意する必要があろう。
○柱松行事は辯才天信仰や吉野大峰信仰と密接な関係があることは、例えば、役の行者の生誕地とされる奈良県御所市茅原の吉祥草寺などにも、左義長(トンド)が存在することからも明らかである。柱松行事にしたところで、本来、俊寛とは何の関係も無い行事である。硫黄島で俊寛は忘れることのできない人物であることは確かだが、何でも俊寛に起源があるわけでもない。