とくとくの清水
芭蕉は元禄三年(1690年)四月、幻住庵に入り、この清水を使い気ままな自炊生活をしていた。
芭蕉俳文の代表作「幻住庵記」に、『たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みて自ら炊ぐ。
とくとくの雫を侘びて一炉の備へいとかろし。』と記している。
また、来庵者への洒落に、挨拶として、『我宿は蚊の小さきを馳走かな』(泊船集)の句がある。
○「幻住庵記」には、とくとくの清水について、以下のように記す。
猶眺望くまなからむと、後ろの峯に這ひのぼり、松の棚作り、藁の円座を敷きて猿の腰掛けと名付
く。彼の海棠に巣をいとなび、主簿峯に庵を結べる王翁・徐佺が徒にはあらず。唯睡辟山民となり
て、孱顔に足を投げ出し、空山に虱を捫って座す。たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みて自ら
炊ぐ。とくとくの雫を侘びて一炉の備へいとかろし。はた昔住みけん人の、殊に心高く住みなし侍り
て、たくみ置ける物ずきもなし。持佛一間を隔て、夜の物おさむべき処などいささかしつらへり。
○文中、『彼の海棠に巣をいとなび、主簿峯に庵を結べる王翁・徐佺が徒にはあらず。』は、黄山谷の「題灊峯閣」の一節、
徐老海棠巢上
王翁主簿峯菴
梅蘂破顔氷雪
緑叢不見黄甘
に拠るもの。「睡辟=睡癖」とは、ねむりぐせのあること。「孱顔(さんがん)」とは、そそりたつ山の斜面。また、山が高くけわしいさま。「空山」とは、人けのない寂しい山。
○幻住庵の「とくとくの清水」案内板には、
この清水を使い気ままな自炊生活をしていた
とあるけれども、「幻住庵記」には、芭蕉は『たまたま心まめなる時』に、自炊していたとわざわざ断っているのだから、普段には使用人がいて、芭蕉自身は、ほとんど賄い・雑役はしていなかったと考える方が普通だろう。
○それに、とくとくの清水にしたところで、「幻住庵記」が記すのは、
とくとくの雫を侘びて一炉の備へいとかろし。
とあるだけで、何処にも『とくとくの清水』と表記しているわけでもない。
○『とくとくの清水』自体は、本来、西行法師の次の和歌に拠るとされる。
とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな
この清水は、吉野の西行庵近くに存在する。芭蕉は二回ほど、吉野を訪れているが、その際、芭蕉が詠んだとされる句は、「野ざらし紀行」に以下のようにある。
西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計りわけ入るほど、柴人のかよふ道のみわづかに有
りて、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼のとくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今も
とくとくと雫落ちける。
露とくとく心みに浮世すすがばや
若し是れ扶桑に伯夷あらば、必ず口をすすがん。もし是れ許由に告げば耳をあらはむ。
○だから、幻住庵の「とくとくの清水」は、芭蕉が吉野の西行庵の「とくとくの清水」になぞらえたものであることが判る。芭蕉はそれほど西行に憧れ、西行を尊敬していたらしい。
○ともあれ、芭蕉は幻住庵で、伯夷や許由、王翁・徐佺などのような生活をすることに憧れつつも、心は俳諧に妄執していたことだけは、間違いなさそうである。頗る芭蕉の我執は深い。