幻住庵記(前半) | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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●再度、「幻住庵記」の冒頭文を掲載すると、

   石山の奥、岩間のうしろに山有り、国分山と云ふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。麓に細き
  流れを渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして八幡宮建たせ給ふ。神体は弥陀の尊像とかや。唯一の
  家には甚だ忌むなる事を、両部光を和らげ利益の塵を同じうしたまふも又尊し。日頃は人の詣でざり
  ければ、いとど神さび物しづかなる傍らに、住み捨てし草の戸有り。蓬・根笹軒を囲み、屋根漏り壁
  落ちて狐狸臥所を得たり。幻住庵と云ふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になん侍
  りしを、今は八年許むかしになりて、正に幻住老人の名をのみ残せり。

○ここに、「あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になん侍りしを、今は八年許むかしになりて、正に幻住老人の名をのみ残せり」と記すように、本来、幻住庵は、菅沼曲水の伯父である菅沼定知の別荘であった。定知が亡くなって放置されていたのを、芭蕉の門人である曲水が手入れして、芭蕉に提供したものである。芭蕉はここに、元禄三年(1690年)四月六日から七月二十三日までの約四ヶ月間、滞在している。

●芭蕉は、ひどく幻住庵が気に入ったようで、続けて次のように記している。

   予又市中をさる事十年計にして、五十年やや近き身は、蓑虫のみのを失ひ、蝸牛家を離れて、奥羽
  象潟の暑き日に面をこがし、高すなご歩み苦しき北海の荒磯にきびすを破りて、今歳湖水の波に漂ふ。
  鳰の浮巣の流れ留まるべき芦辺の一本の陰たのもしく、軒端茨改め、垣根結添へなどして、卯月の初め
  いとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひ初みぬ。

●「いとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひ初みぬ」と言うから、芭蕉は、最初、極めて軽い気持ちで幻住庵に滞在し始めたのであるが、幻住庵はなかなか住み心地がよく、そのままずっとここに滞在し続けたいと思い始めるようになったと言う。その理由について、芭蕉は更に続けて、次のように記している。

   さすがに春の名残りも遠からず、躑躅咲き残り、山藤松に懸かりて時鳥しばしば過ぐる程、宿かし
  鳥の便りさへ有るを、啄木鳥のつつくとも厭はじなど、そぞろに興じて、魂呉楚東南にはしり、身は
  潚湘洞庭に立つ。山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峯よりおろし、北風海を浸して
  涼し。日枝の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城有り、橋有り、釣りたる舟有り。笠とり
  にかよふ木樵の声、麓の小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に、水鶏の扣く音、美景物として足
  らずと云ふ事なし。中にも三上山は士峯の俤にかよひて、武蔵野の古き栖もおもひいでられ、田上山
  に古人をかぞふ。ささほが嶽・千丈が峯・袴腰といふ山有り。黒津の里はいとくろう茂りて、網代守
  るにぞとよみけん万葉集の姿なりけり。猶眺望くまなからむと、後ろの峯に這ひのぼり、松の棚作
  り、藁の円座を敷きて猿の腰掛けと名付く。彼の海棠に巣をいとなび、主簿峯に庵を結べる王翁・徐
  佺が徒にはあらず。唯睡辟山民となりて、孱顔に足を投げ出し、空山に虱を捫って座す。たまたま心
  まめなる時は、谷の清水を汲みて自ら炊ぐ。とくとくの雫を侘びて一炉の備へいとかろし。はた昔住
  みけん人の、殊に心高く住みなし侍りて、たくみ置ける物ずきもなし。持佛一間を隔て、夜の物おさ
  むべき処などいささかしつらへり。

○芭蕉の文で、「奥の細道」の次いで知られるのが、この「幻住庵記」だと言う。「奥の細道」は、長い俳諧紀行文で、佳句を数多く含むし、変化もあって面白いものであるのに対し、「幻住庵記」は、文も短いし、句も一句のみで、さして面白いものでもない。それがよく読まれる理由の一つは、こういう名文が存在するからではないか。俳諧文学の粋みたいなものが、この「幻住庵記」には存在すると言うことなのだろう。

○長くなるので、後半部は、次回に繋げたい。