竹生島へ行く | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○9時近くになるにつれて、次第に人が何処からともなく出て来て、20人ほどになった。駐車場に停まっている車は三、四台ほどしかない。

○案内所の隣に大きなホテルがあるので、どうも其処に宿泊していた人が、直接歩いて案内所にやってきたようである。

○午前9時ちょうどに、船は出航した。普通の小型フェリーのように馬力のある船で、勢いよく船は走って行く。東に見える伊吹山は雲にすっかり覆われていて、どんどんと雲を湧き出して、その雲が琵琶湖に流れてくるようである。今日は、東風なのだろう。

○長浜港の先に、金糞山が見える。ちょうど、雲が切れて、その全容を知ることが出来る。金糞山は堂々としたなかなか立派な山である。

○長浜港から、琵琶湖の沖に島が浮かんでいるのが見えていて、あれが竹生島だろうと思っていたら、意外なことに船は割と湖岸沿いに走って行く。不思議に思っていると、竹生島は別の方向にあることに気付いた。長浜から琵琶湖の沖に見える島は多景島と言う別の島らしい。

○長浜港から竹生島までは30分であるから、それほど遠い距離ではない。船はスピードもあるから、どんどん竹生島が大きくなってくる。晴れてはいないが、曇りで、それほど天気も悪く無いので、遠くには比良山地がよく見える。

○大津あたりでは、琵琶湖はそれほど大きな湖とは感じられないが、このあたりに来ると、本当に琵琶湖の大きさが実感され、日本一の湖であることが納得される。琵琶湖は北側が圧倒的に広く大きい。

○それでも、この湖に「琵琶湖」と命名した人は、よくこの湖の形状を知っていたことに驚かされる。一見して納得される光景ではないからである。

○陸上に比較して、海上の物資輸送は甚だ大きいものがある。古代に於いて、琵琶湖が輸送手段として果たした役割はとてつもなく大きかったのではないか。そういう時代、湖上に浮かぶ竹生島は重要な目印であったに違いない。それほど琵琶湖は大きく広いのである。

○ちなみに、琵琶湖最北端に当たる西浅井町塩津浜から大津港までをグーグルアースで計測すると、約64劼曚匹砲覆襦F韻犬茲Δ法∧童兇ら大津港までを計測すると、約53劼任△襦N上輸送とは比較にならないほど、湖上輸送は便利で、かつ迅速であったのではないか。

○だから、琵琶湖畔には、多くの海洋民族が進出している。高島市の安曇川や鴨川、大津市の和邇川、米原の息長、それに長浜の地名にしたところで、全て海洋民族のそれであろう。

○竹生島自体が海洋民族の聖地であったのではないか。今回の訪問は、それを確認するためのものである。