ー如竹先生傳ー(再掲) | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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●屋久島を訪れて、屋久聖人、如竹先生を語らないわけにはいかない。しかし、現代において、如竹先生を知る人は少ないのではないか。本ブログでは、すでに2008年6月に、「如竹先生傳」を掲載している。ここでは、それを再掲しておきたい。

○「麑藩名勝考」巻之七、大隅國馭謨郡屋久島の益救島安房村の項に、「恕竹居士之傳」を載せている。

   恕竹居士の傳に曰く、恕竹姓は泊氏。始め、この村本佛寺に入りて書を読み、遂に祝髪す。蓋し蓄
  髪にては他国へ出ること不能が故に僧形となれり。故に生涯書する所の筆迹等、挙げて皆儒者の語に
  して、曽てその寺宗の妙法等の佛号なし。
   慶長中、藤堂高虎の聘に応じて書を講ず。高虎卒せし後、本藩へ反り、琉球に適き、世主王の師と
  なる。其の後、大坂に寓居し朱学を教授す。是の時年殆ど八十歳。明暦年中屋久島に反り終る。島民
  今に至り其の徳を慕ひ、其の化を仰げり。蓋し希世の偉人なり。
   諸家人物誌に曰く、恕竹は薩州の人、姓を詳らかにせず。或いは薩州南の小島舵工の子なり。少く
  して髪を削りて僧となり、京師に至り、本能寺に居て法華を学ぶ。然れども心楽しまず。又薩州に帰
  る。時に同州の人、釈文之、四書集註を講ずるを聞き、大いに喜びて曰く、吾固より是あるを思ふ。
  果たして然り。是を捨てて何をか学ばんやと。遂に文之に従学して儒となり、藤堂侯に聘せらる。侯
  逝して嗣君学を好まず。因りて薩州に帰り、余禄を以て親族郷人の貧なる者を賑はし、海に浮かびて
  龍虬に適く。琉球王敬して師事ふ。翁琉球に居事久し。然れども遠く異国に就くことを楽しまず。乃
  ち去りて薩州に帰り、又禄を以て郷党に分くること始めのごとし。明暦の間を以て薩州の本邑に卒
  す。

○「麑藩名勝考」には、種子島・屋久島に関する記述は極めて少ない。その中で、突出して恕竹居士の傳を載せている。「麑藩名勝考」が著された寛政七年(1795年)ころには、儒学は官学であったわけであるから、大儒恕竹の名は広く日本中に知られていた。

○いつも思うのだが、白尾國柱は名文家である。文は極めて簡潔であるけれども、それでいて、多くのことを伝えている。なかなかこういう文は書けない。

○天保十四年(1843年)成立の「三国名勝図會」は、更に詳細に「如竹翁傳」を載せている。余りに長いので、省述する。

   翁、姓は泊氏、名は日章。自ら如竹散人と号す。大隅國、馭謨郡、屋久島、安房村の人なり。幼に
  して凡ならず。安房村本佛寺に入りて日蓮宗の僧となる。長じて京師に適き、法華を本能寺に学ぶ。
  (中略)廼ち辞して西帰し、学を南浦文之に学ぶ。八年にして成る。文之敬待して、常に如竹翁と称
  す。(中略)寛永七年(1630年)、(藤堂)高虎卒す。嗣君学を好まず。辞して京都に適き、経
  を講ず。聴徒多し。翁の上野国にあるや近邦の諸侯等、其の賢を聞き、召請して教授を受くる者、
  往々ありしとぞ。翁又、上野国にありし時、桂庵著述の家法和點、文之點の四書新註、周易傳義、及
  び、文之著述の南浦文集、砭愚論、恭畏問答等に跋を作りて梓行す。是れ皆俸禄の余金を以て其の費
  用に供す。凡そ皇国、四書新註、周易傳義の板行は是を以て始めとすといふ。(中略)既にして、翁
  又浪華に至りて寓止し、朱学を教授す。是の時、翁既に八十に近し。猶ほ能く精爽強力にして祁寒大
  暑を以て發せず。居ること数歳ならず、本邑に帰る。明暦元年(1655年)五月十五日、本邑に卒
  す。春秋八十六歳なり。
   寛陽公命ありて、其の墓を建て給ふ。翁の人と為りや、剛毅にして大節あり。徳器粋然として、人
  望んで畏服す。其の学実行を以て本とし、博渉を務めず、詩賦を喜ばず。今傳ふる所の詩文、僅かに
  十余首を見るのみ。最も四書集註に精はし。晩年特に濂洛の書を閲して、吾早く是に熟せば聖人に成
  り得べかりしといひしとぞ。終身僧形にして、本佛寺の住持たれども、儒業を主とす。平素能く人を
  教育し、面前には其の過ちを告げ、退ひては其の善を称す。仁信の心深く、行状廉潔にして、見識明
  達なりしかば、邦君以下、大臣士庶に至って、敬禮せざる者なし。其の郷党の如き、今に至りて徳を
  仰ぎ、常に如竹先生と称して、忌日には、必ず祭りを設く。尊重すること神の如しとぞ。(以下略)

○原文は、この十倍ほどであろうか。いかに如竹が尊崇されていたかが分かる。ほかにも多くの寓話を含んでいて、読んで楽しい。

○近年、如竹先生が屋久杉を伐ることを奨励したことから、自然破壊の元凶みたいに言う人がいる。それは歴史を知らないし、理解出来ない人の言いぐさに過ぎない。如竹先生は、元亀元年(1570年)から明暦元年(1655年)に生きた人である。当時、屋久島安房の人々の生活がどのようなものであったか、想像すれば分かる。飢饉で餓死者が度々出るような生活から脱却を図ったのが如竹先生である。自分は質素な僧坊生活をしながら、人の為に私財を投げ打った如竹先生が屋久杉を伐ったのは、ひとえに島民のためを思ってのことにほかならない。「言ふは易し 行ふは難し」。如竹先生を非難中傷する人は、では何をしたと言うのか。少なくとも如竹先生は多くの島民を助け、多くの人々に薫陶を垂れている。そして今なお多くの人々の尊敬を得ている。

○今、屋久島は世界遺産となって、多くの人々が屋久島を訪れている。しかし、そのほとんどの人々は如竹先生について、何も知らない。屋久島の人々は、もう少し、如竹先生を人々に紹介しても良いのではないだろうか。これほどの偉人はそうは居ないと思うからである。