大和王権と邪馬台国 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2010年イメージ 13月22日に、福岡県春日市クローバープラザ大ホールで開催された、「邪馬台国徹底検証第3弾!シンポジウム」の基調講演は、静岡大学名誉教授 原秀三郎氏によって、「大和王権と邪馬台国」の演目で講演なされた。
 
○原秀三郎氏は古代史がご専門である。副題には「崇神天皇とヒミコは同じ時代に生きていた」とあった。プログラムの基調講演案内の冒頭には、以下のように記す。
 
   三世紀の日本を復元し、大和王権の成立とその意義について考えようとする時、考古学的事実と魏志倭人
  伝だけから出発するのではなく、日本書紀や古事記(紀・記)の伝えるところも併せて、三者を総合的に使うこ
  とが大切だと思います。敗戦前の歴史教育における神話・伝承重視の反動もあって、この半世紀余りは倭人
  伝と考古学的事実が偏重され、紀・記の伝える豊かな伝承と史実がないがしろにされてきた感があります。
 
○考古学的事実が余りに偏重されていることは事実である。しかし、倭人伝(おそらく魏志倭人伝のこと)が偏重されてきた事実は何処にもない。と言うか、魏志倭人伝が読まれていないことが現在の混迷の原因であることは確かである。
 
○氏がおっしゃるように、確かに多くの人々が魏志倭人伝にはこう書いてあると言って憚らない。しかし、そういう読み方自体が既に間違いであることに誰も気付いていないのである。中国の史書はそういうふうに読むものではない。中国の史書の読み方さえ知らない人々が魏志倭人伝を勝手気儘に読んだところで、到底、史実を発見することなど、不可能であるに決まっている。
 
○考古学者の誰もが魏志倭人伝に書いてあると言うけれども、考古学者は肝心要の魏志倭人伝を体系的に読んだとは誰も発言しない。これはおかしな話だろう。考古学者は誰もが魏志倭人伝は専門外であると言って憚らない。それでいて魏志倭人伝に書いてあると言う。そんなおかしな話はない。魏志倭人伝も満足に読めない人が邪馬台国を語ることは許されない。何故なら邪馬台国は魏志倭人伝に書かれている史実に過ぎないからである。考古学者が邪馬台国を論ずること自体が完全な誤りである。何故なら自らが専門外であると認めていることなのだから。
 
○原秀三郎氏は、さらに崇神天皇の没年を西暦258年(戊寅)であると規定し、
 
   三世紀の日本には北九州に邪馬台国のヒミコの統治する女王国があり、一方、女王国の東、海を渡る一千
  余里の地には、大和を中心に大和王権が存在していたことが判明します。
 
と言う、驚くべき発言をなさるのである。邪馬台国北九州説の人々にとって、こんな都合の良い話はない。では、原秀三郎氏のおっしゃる大和王権は何処から来たのであろうか。
 
○記紀を読む限り、大和王権の出自が日向国であることは絶対に無視出来ない史実である。初代天皇である神武天皇が日向国から東征したことは古事記にも日本書紀にも書いてある。それを無視して、三世紀に北九州に邪馬台国が存在し、近畿に大和王権が存在したなどと唱えたところで、誰も認めることなど出来ない。
 
○魏志倭人伝を良く読めば、邪馬台国は日向国に存在したと明記してある。そういうふうに読めないのは、読者に責任がある。「完読魏志倭人伝」(2010年1月:高城書房刊)を読めばそのことがよく判る。日向国には神代三山陵もしっかり残っている。邪馬台国の隣には狗奴国もちゃんと存在しているのである。
 
○前回にも紹介したが、北九州に邪馬台国が存在することは魏志倭人伝を読む限りあり得ない話である。邪馬台国は北九州から水行三十日+陸行一日の彼方に存在する国だと魏志倭人伝に書いてある。その距離は北九州から投馬国まで千五百余里、投馬国から邪馬台国まで八百余里となる。魏志倭人伝の著者、陳寿はそういうふうに記録しているのだけれども、残念ながら、そういうふうに読むことの出来ない読者は、魏志倭人伝が読めない人である。
 
○原秀三郎氏は、倭人伝の読解として田中卓説(修正放射線説)なるものを紹介され、倭人伝の弱点は路程記述の難解さにあると説く。本当だろうか? 少なくとも、「三國志」魏書巻三十、『烏丸鮮卑東夷傅』にそれほど難解なところは無い。陳寿は極めて冷静に淡々と史実を記録しているだけである。ほんの少しばかり里程と日程を混用させているが、それは中国の史書であれば、極めて当たり前のことに過ぎない。そんなことも理解出来ない史家など、中国の史書を読む資格が無いだけのことに過ぎない。本来、陳寿が相手にするのは専門の中国の史家だけであって、決して一般庶民などではないことに留意すべきであろう。本来、陳寿が相手にするのは専門の中国の史家だけであって、決して一般庶民などではないことに留意すべきであろう。中国を代表する史家はそれほどおろかではないのである。
 
○原秀三郎氏の講演の中で、賀茂氏が巻向遺跡と関連すると言う話は興味深い。陶荒田神社(大阪府堺市上之)や三島鴨神社(大阪府高槻市赤大路町鴨林)が大田田根子と関連すると言うのである。伊予の大三島や伊豆の三島神との関連にも言及された。これは、多分、確かであろう。実は三島神の出自は南九州にある。貴重なお話を伺えたことに感謝申し上げたい。