旅に病で夢は枯野をかけ廻る | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○松尾芭蕉辞世の句は、普通、次の句とされる。

  旅に病で夢は枯野をかけ廻る

しかし、この句には『病中吟』と題詞があるので、この句を辞世の句と認めるのをためらう人がいることも事実である。念の為に、各務支考の「笈日記」(10月8日条)を再掲すれば、以下のようにある。

   之道住吉の四所に詣して、此度の延年を祈る所願の句あり。記さず。此夜深更に及びて介抱に侍り
  ける呑舟を召されて、硯の音のからからと聞こえけるは、如何なる消息にやと思ふに、
    病中吟  旅に病で夢は枯野をかけ廻る  翁
  その後支考を召して、なをかけ廻る夢心と言ふ句作りけり。いづれをかと申されしに、その五文字は
  如何に承り候はんと申せば、いと難しき事に侍らんと思ひて、此句何にか劣り候はんと答へけるな
  り。如何なる不思議の五文字か侍らん。今は本意無し。自ら申されけるは、はた生死の転変を前に置
  きながら、発句すべき業にもあらねど、世の常此道を心に籠めて、年もやや半百に過ぎたればい寝て
  は朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声に驚く。是を仏の妄執と戒め給へるただちは今の身
  の上に覚え侍るなり。此後はただ生前の俳諧を忘れむとのみ思ふはと、返す返す悔やみ申されしな
  り。さばかりの叟の、辞世はなどなかりけると思ふ人も世にはあるべし。

○追善集『枯尾花』が載せる宝井其角の「芭蕉翁終焉記」には、次の通り。

   ただ壁を隔てて命運を祈る声の耳に入りけるにや。心弱き夢の覚めたるはとて、
     旅に病で夢は枯野をかけ廻る
  また、枯野を廻る夢心ともせばやと申されしが、是さえ妄執ながら、風雅の上に死なん身の、道を切
  に思ふなりと悔やまれし。八日の夜の吟なり。

○直接、10月8日の芭蕉の作句に立ち会ったのは支考であるから、支考の「笈日記」の記事を無視することは出来ない。そうすれば、やはり、『旅に病で』句は辞世の句ではないとするのが適当なのではないか。それでも『旅に病で』句が芭蕉最後の句であるとすれば、その価値は大きい。

○しかし、『旅に病で』句は意外に誤解されている。例えば、山本健吉『芭蕉』。

   旅に病み、夢うつつの中で、彼は枯野をさまよい歩いている自分の姿を見た。いつからか漂白の思
  い止まず、ある時は曠野に野ざらしになることさえ決意したのも、彼の言う「妄執」・・・言いかえ
  れば芸術への絶ちがたい執着からであった。五十年の生涯も、言わば「枯野の旅」の如きものであっ
  たのであり、何を求めて歩きつづけたのか、それはけっきょく文学一途の無償の旅であったのだ。彼
  は夢においてさえ、何かを求めつづけ、歩きつづけている自分の妄執の深さを見る。何か知らない
  が、目茶苦茶に駈けめぐっている、思いつめた自分を姿を見る。一生の歩みがパノラマのように、高
  熱の幻想の中をかけめぐる。死を真近に予期した彼の、その網膜に映る圧縮された一生は、枯野の旅
  人というイメージの中に、象徴的表現を見出す。芭蕉はそれを『夢は枯野をかけ廻る』という荒々し
  い筆致で単刀直入に描き出すのだ。

○多くの人々が芭蕉の『旅に病で』句に、芭蕉辞世の句として感情移入して已まない。しかし、それは芭蕉の本意ではあるまい。芭蕉には芭蕉の都合と言うものがある。『旅に病で』句で、芭蕉はそれほど感情的では無く、極めて冷静に我が身を振り返る。

○それは、題詞に『病中吟』とあることからも納得されよう。あくまで『旅に病で』句は、『病中吟』句に過ぎない。辞世の句に誰が『病中吟』などと断り書きなど、記そうか。

○句中の『枯野』にしたところで、『夢は枯野をかけ廻る』のであるから、単に大阪に対する挨拶に過ぎないし、季節を詠み込んだに過ぎない。芭蕉の真意は別にある。

○「古事記」下巻・仁徳天皇記に、

   兔寸河の西に一つの高樹有りき。其の樹の影、旦日に当たれば淡路島に逮び、夕日に当たれば、
  高安山を越えき。故、是の樹を切りて船を作りしに、甚捷く行く船なりき。時に其の船を號けて
  枯野と謂ひき。故、其の船を以ちて旦夕淡路島の寒泉を酌みて、大御水献りき。玆の船、破れ壊れて
  鹽を焼き、其の焼け遺りし木を取りて琴に作りしに、其の音七里に響みき。爾に歌曰ひけらく、
    枯野を 鹽に焼き 其が餘り 琴に作り 掻き弾くや
    由良の門の 門中の海石に 觸れ立つ 浸漬の木の さやさや

とある。同じ歌謡を「日本書紀」では応神天皇紀に載せている。大阪なのだから、芭蕉が言うところの『枯野』はこれであって、単なる『枯野』ではないだろう。

○「荘子」『逍遙遊篇』第一に、

  小知不及大知、小年不及大年、奚以知其然也、朝菌不知晦朔、惠蛄不知春秋、此小年也、
  楚之南有冥靈者、以五百歳爲春、五百歳爲秋、
  上古有大椿者、以八千歳爲春、八千歳爲秋、而彭祖乃今以久特聞、衆人匹之、不亦悲乎、
    小知は大知に及ばず、小年は大年に及ばず。奚を以て其の然るを知るや。
    朝菌は晦朔を知らず。惠蛄は春秋を知らず。此れ小年なり。
    楚の南に冥靈なる者有り。五百歳を以て春と爲し、五百歳を秋と爲す。
    上古に大椿なる者有り、八千歳を以て春と爲し、八千歳を以て秋と爲す。
    而るに彭祖は、乃ち今久しきを以て特り聞ゆ。衆人之に匹せんとす、亦た悲しからずや。

とある。芭蕉は「古事記」の『枯野』を以て、「荘子」の『大椿』に見立てているに過ぎない。芭蕉は病中にあってもなお、その気概は大阪に在って、西は淡路島から東は高安山まで及んでいると言うのであるが、後世の『小知』はとんと、そういう芭蕉の意気込みを酌み取ってくれない。芭蕉は病気だからと言って、それに拘泥するような、そんな女々しい男ではない。まさに『燕雀安知鴻鵠之志哉』と嘆息させられるばかりである。

○芭蕉を過大評価してはならないが、芭蕉はそれほどつまらない男ではない。死の床にあってさえ、壮大な世界を夢見るような男が芭蕉である。『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』句は、辞世の句ではないが、道士芭蕉に如何にも似つかわしい句となっている。これほど誤解されている句も珍しい。