続々・笠島道祖神の正体 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○仏教の世界では、笠島と言う地名がどういうものであるのか、当たり前のことなのかも知れないが、以前から気になって仕方がなかった。前回、記したように全国各地に存在する地名である。不思議な地名であるから、何か縁起由来があるのだろう。
○全国各地の笠島地名を見ると、どうも辯才天信仰と深い関係があるようなのである。何故なら笠島地名の存在するところには決まって辯才天が祀られているようなのである。
○以前、書庫『吉野山の正体』の中の、ブログ「役の行者の正体」「辯才天と江の島」等で、辯才天が祀られているところを江と呼び、江島・江の島・江ノ島などの地名が存在することを明らかにした。だから吉野山も、本来は江ノ山であって、それが吉ノ山と表記され、次第に吉野山と呼ばれるようになったのではあるまいか。だから、本来、吉野山・大峰信仰のご本尊は辯才天であったとしか考えられない。
○もともと辯才天様はサラスヴァティー(Saraswati:水を持つもの)と言って、ヒンドゥー教の女神であったわけであるから、辯才天様の住まいを江と呼んでも不思議ではない。ちなみに、江島・江の島・江ノ島も全国各地に存在する地名である。まだ、全部を確認したわけではないが、おそらく江島・江の島・江ノ島地名のあるところにも、辯才天信仰が存在するものと思われる。

○肝心の笠島の地名については、「源平盛衰記」巻第七、『笠島道祖神事』の記事の中に面白い話を載せている。
      【笠島道祖神事】
   (実方中将)終ひに奥州名取郡、笠島の道祖神に蹴殺されにけり。実方馬に乗りながら、彼の道祖
  神の前を通らんとしけるに、人諌めて云ひけるは、「此の神は効験無双の霊神、賞罰分明なり。下馬
  して再拝して過ぐし給へ」と云ふ。実方問ひて云はく、「何なる神ぞ」と。答へけるは、「これは都
  の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする、出雲路の道祖神の女なりけるを、いつきかしづきて、
  よき夫に合はせんとしけるを、商人に嫁して、親に勘当せられて、此の国へ追ひ下し給へりけるを、
  国人是を崇敬しひて、神事再拝す、上下男女所願ある時は、隠相を造りて神前に懸荘し奉りて、是を
  祈り申すに叶はずと云ふ事なし。我が御身も都の人なれば、さこそ上り度くましますらめ、敬神再拝
  し祈り申して、故郷に還り上り給へかし」と云ひければ、実方、「さては此の神下品の女神にや、我
  下馬に及ばず」とて、馬を打ちて通りけるに、神明怒りを成して、馬をも主をも罰し殺し給ひけり。
  其の墓彼の社の傍らに今に是れ有り」といへり。人臣に列して人に礼を致さざれば罪に流され、神道
  を欺きて神に拝を成さざれば横死にあへり。実に奢る人なりけり。去れども都を恋しと思ひければ、
  雀と云ふ小鳥になりて、常に殿上の台盤に居、台飯を食ひけるこそ最も哀れなれ。
○これに拠ると、笠島道祖神は、
  ‥圓硫賁个硫聾兇寮勝一条の北の辺におはする、出雲路の道祖神の女。
  ⊂人に嫁して、親に勘当せられて、此の国へ追ひ下し給へりける神。
  上下男女所願ある時は、隠相を造りて神前に懸荘し奉りて、是を祈り申すに叶はずと云ふ事なし。
と言う霊験あらたかな神であったらしいことが分かる。
○現在、京都市上京区寺町通り今出川上ル西入ル幸神町303に鎮座する幸神社が出雲路の道祖神に該当する。この神はもともとは賀茂川沿いに鎮座していたと言う。賀茂川の西岸には、現在でも京都市北区出雲路神楽町・出雲路俵町・出雲路立テ本町・出雲路松ノ下町などの町名が残っている。それに下鴨神社には出雲井於神社が存在するし、ちかくには出雲寺と言う寺も存在する。
○京都の幸神社は御所の東北隅に「さいのかみ」を祀ることを目的に建立されたものらしい。正式名称は「さいのかみのやしろ」と言う。平安京造営の際に御所の鬼門を守るために勧請されたもので、朱雀天皇の天慶二年御分霊を内裏に奉遷、庚申祭御執行の記事が「百練抄」並に社蔵の旧記に見え、一条天皇の長保元年、天慶同様の御儀御執行のことが社蔵旧記にある古い格式のある神社である。祭神は猿田彦大神。
○「上下男女所願ある時は、隠相を造りて神前に懸荘し奉りて、是を祈り申す」とあるから、本来、ここにも男根奉納がなされていたことが分かる。
○平安京造営以前に、この付近は愛宕郡出雲郷と呼ばれ、出雲氏の氏寺である出雲寺と言う古い寺が存在していたことが確認されている。現在、幸神社境内の東北隅の結界内に、猿田彦といわれる陽石が祀られている。この岩がここ出雲路道祖神の御神体であると言う人もいる。
○出雲路幸神社は、別に安来市西松井町にも鎮座まします。これも出雲国風土記では狭井社、延喜式神明帳には佐為神社と記されている古社である。

○このようにみてくると、笠島道祖神は本来、出雲の神であったらしい。それが宮城県名取市愛島笠島に勧請されたものである。しかし、その何処にも笠島の地名に関係するものは見えて来ない。
○ところが、道祖神が辯才天信仰と深い関係があることを考慮すれば、笠島の風景が見えてくるのである。上記の写真をご覧いただきたい。これが真の笠島の正体であろう。写真の笠は少し乱れているから見えにくいかも知れないが、元来は、島に綺麗に笠のように雲が懸かっている状態を笠島と呼んだのであろうと思われる。
○笠島と言う呼称は、極めて不思議なものである。まず、普通に説明することは難しい。しかし、九州の南の海には、まるで笠のように雲を常時浮かべた島が存在する。海上であるから、随分遠くから眺めることが出来る。ここを通った人は、天気さえ良ければ、必ず目にする光景である。
○百聞は一見に如かずと言うけれども、笠島を説明するのに、これほど分かり易いものはない。まさに見ることは信じることである。無駄な説明など何も要らない。古代の人はこういう情景を見て、感動し、畏敬の念を覚え、笠島と命名したものと思われる。
○江島・江の島・江ノ島などの地名も笠島も同じ硫黄島であると言う話は、何でも硫黄島に持って行くようで、こじつけ臭く、まるで信用置けないと言う人のために注記するが、本来、江島・江の島・江ノ島などの地名と笠島の呼称は同じものを指す呼称である。こういうのを枕詞と言う。「とぶとりの」明日香は、明日香であり、飛鳥であるのと同じである。
○おそらく、「笠島の」は枕詞で、江島・江の島・江ノ島などの語に掛かるものであろう。「笠島」の実体は、硫黄島に常に掛かっている白雲を形容したものであろう。もちろん、江島・江の島・江ノ島は硫黄島のことであり、その実体は舎衞國であろう。
○写真は、鹿児島県三島村硫黄島の風景である。ここが日本辯才天信仰の故郷である。