役の行者の正体 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○「続日本紀」や「日本國現報善悪霊異記」、「今昔物語集」などをよく読むと、どうも役の行者には、多大な脚色が見られることが分かる。それもそのはずで、役の行者は何と言っても、吉野山の開基であって、蔵王権現を感得した大聖人である。そのような聖者が並みの人物であっては、尊敬も覚束ないものになってしまう。そうした配慮が役の行者を途方もない超人としてしまっている。これはどの宗教でも同じであるから、一概に修験道の人々を責めるわけにもいかない。
○しかし、文献の端々に覗かれる糸を手繰り寄せることによって、本来の役の行者がどういう人物であったかが、おぼろげながら見えてくる。脚色された衣を脱ぐことによって、役の行者の真実の姿を見ることが出来る。
○そう考えると、「役の行者」と言う名は、我々に多くのことを教えてくれる。もともとは『役の優婆塞』であって、『役君小角』である。優婆塞は、四衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)の一つで、在家の男性の信者のことであるから、役の行者は在家の信者であった。出身は、大和の国、葛木の上の郡茅原村の人。「役君小角」というからには、地方の豪族であったのだろう。

○本ブログで、すでに前に紹介したことであるが、「吉」の文字は「古事記」に30例、「日本書紀」に228例、「万葉集」に368例出てくる。その読みには「きち・よし・え」の三つがあって、そのそれぞれを示すと次のようになる。
        き・きち   よ・よし     え   
  古事記     20     10      0   計   30例
  日本書紀   128     89     11   計  228例
  万葉集    244     93     31   計  368例
    総数   392    192     42  合計  626例
○これらの表記から、吉備・吉野・住吉の地名と吉師・吉士の役職名を除くと、次のようになる。
        き・きち   よ・よし      え
  古事記      0      5      0   計    5例
  日本書紀    12     16      0   計   28例
  万葉集    244     60      0   計  304例
    総数   256     81      0  合計  337例
○つまり、「吉」字は、古事記・日本書紀・万葉集において、「吉」の全表記例は626例存在するけれども、吉備・吉野・住吉の地名と吉師・吉士の役職名を除くと、半減して337例になってしまう。
○古事記・日本書紀・万葉集に、「吉」字を「え」と読む例が42例存在するけれども、それはすべて「住吉」の表記であることが分かる。古事記・日本書紀・万葉集には、「住吉」以外に「え」と読む例は存在しない。また、古事記には「住吉」の表記例は全く存在しない。
○古事記では住吉は墨江である。つまり、古事記では墨江の港としての意識が存在した。しかし、日本書紀や万葉集では住吉は社の性格を強く帯びることになったのであろう。
○もともとは『すみよしの墨江』が本来の呼称ではないか。もちろん『すみよしの』は枕詞である。当時、ちゃんとした地名や人名などには、美称としての枕詞を冠するのが常例であった。『とぶとりの明日香』であり、『ひのもとの日下』など、由緒正しい地名には、しっかりとした枕詞が存在するのである。
○枕詞は単なる美称ではないことも、十分留意すべきである。地名墨江は、おそらく黒い川の意ではないだろう。近隣の海岸端と違って、墨を流したように、穏やかな入り江が墨江だったのではないか。だからここには多くの人々が集まり、集落を営んだ。だから『すみよしの』墨江となった。『すみよしのすみのえ』と『す』音を重ねるのも、枕詞の常套手段である。

○おそらく吉野も同じであろう。「三宝絵詞前田家本」や「今昔物語集」巻十七ノ十六や「袖中抄」が『役の行者』を『江の優婆塞』と表記していることからも判るように、吉野山は実は「江の山」が本来の呼称であった。つまり、「役の行者」は「江の行者」であったのである。だから「役君小角」の「役君」は、「江君」の意であり、「江地方を治める人」という意味内容であることが判る。
○「續日本紀」卷第一・第二・第三に記されている君姓、「垂水君・道君・當麻公・神麻加牟陀君・牟宜都君・和氣坂本君・米多君」の、「君」の前の文字は、明らかに地名である。同じように、「役君小角」の、「役君」の「役」も当然地名であろう。だから、「役君」とは、「役地方を治める人」の意となる。もっとも「役」は「江」の文字がもともとであるが。
○このことから判るように、「続日本紀」の文武天皇三年(699年)五月二十四日の記事が示す、『役君小角』は、間違いなく『江君小角』であって、単なる『役の行者』ではない。実は『江地方を治める人』が『役の行者』の正体である。『役の行者』は、確かに『江の優婆塞』であった。何故なら、彼は江地方の支配者であった。だから出家したくても、出家することもかなわなかった。お釈迦様や西行法師のように、その身分・地位を放擲して、出家することは、なかなか容易なことではない。いろんな条件下で、役の行者は優婆塞として我慢するしかなかったと想像される。

○役君小角の生まれたとされる奈良県御所市吉祥草寺から、吉野町金峰山寺までは車でわずか30分、20劼鵬瓩ない。当時、吉野は上賀茂氏の治領地であったと思われる。上賀茂に生まれて、「生知あり、博学一」を誇った役君小角は、深く「三寶を仰信し」て、「之を以て業と為す」ほどであった。
○役君小角は40歳を過ぎても巌窟に住み、葛を着て、松を食べていたと言う。まさしく修験者そのものの生活である。当時、40歳と言えば、相当な老人と見なされた。なにしろ人生五十年の時代であるから。おそらく隠居生活ではないかったか。そのころには、役君小角としてではなくて、役の行者・役の優婆塞として、名を知られた存在であったと思われる。
○「続日本紀」に拠ると、外從五位下韓國連廣足と、「日本霊異記」に拠ると、葛木峯一語主大神との間にトラブルが生じ、時の文武天皇に訴えられたらしい。これも普通に考えれば宗教闘争だろう。日本では多くの偉大な宗教者が遠島の罪に処せられている。伊豆島に遠島になったことを考慮すれば、相当重罪である。時代からして、罪は単に役の行者個人だけではなく、一族郎党にも及び、財産没収の憂き目くらいには遭ったのではないか。
○宗教は迫害を受けることによって、更に信仰心が厚くなり、一層信仰自体が伸張するのは、世の諸宗教をみても明らかなことである。蔵王権現を感得した開祖、役の行者・役の優婆塞が遠島の罪で流罪となり、そこで亡くなったことによって、修験道は飛躍的な発展を遂げたのではないか。
○史書や説話を紐解けば、意外な役の行者の素顔が覗く。素顔の役の行者は、それでも十分魅力的である。吉野さんや大峰さんはもちろんのこと、吉川さんや江川さんも吉山さんや江山さんも、皆、役の行者の申し子である。