東西1200m、南北350m、中九州最大の集落遺跡
弥生時代後期から古墳時代前期(3~4世紀)の集落遺跡で、
住居跡120軒、埋葬施設21基、溝状遺構5本が確認され
ています。また、出土品では国内最大級の大きさの巴形銅器
(ともえがたどうき)やわが国唯一の石包丁形鉄器(いしぼ
うちょうがたてっき)をはじめ数多くの青銅器がみつかり、
古代史を知るうえで大変重要な場所となっています。
と紹介されている。また、山鹿市観光振興課の案内には、
方保田東原遺跡は、菊池川とその支流の方保田川に挟まれた台地上に広がる弥生時代後期から古墳
時代前期(今から約1700~1900年前)に繁栄した大集落遺跡です。
これまでの調査の結果、幅8mの大溝をはじめとする多数の溝や100を超える住居跡、土器や鉄器
を製作したと考えられる遺構が見つかっています。また、全国で唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器
である巴形銅器など数多くの青銅製品や鉄製品が出土しており、この遺跡の国力の強さがうかがい知
れます。このほか、山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども出土しており、
交易でも繁栄していた集落であったことが分かってきました。これらの発見から、菊池川中流域の拠
点的な集落であったと考えられています。
昭和60年2月19日、熊本県を代表する重要な集落遺跡として、国の史跡として指定を受けました。
現在は、一部が芝生公園として整備されています。また、方保田東原遺跡の出土品は、山鹿市立博物
館のほか、隣接している山鹿市出土文化財管理センターに収蔵、展示されています。
現在のところ発掘調査をおこなった面積は、全体の1割にも達していません。今後の調査によっ
て、皆さんをアッと言わせるような数々の発見が期待されます。
とあって、方保田東原遺跡がまだ発掘途中の遺跡で、今後、多くの発見が期待されることをうかがわせる。行政がもう少し、この方保田東原遺跡の発掘に力を入れることによって、多大な発掘成果があることは間違いなさそうである。
○現地には次のような案内板が立っていた。
国指定史跡 方保田東原遺跡
この遺跡は、主として弥生時代後期から古墳時代前期(3~4世紀)に
かけて長い間存続した大集落遺跡です。中九州を代表する部族国家の
存在が推定され、その学術的価値がきわめて高いことから、昭和60年
(1985)2月19日 国の史跡に指定されました。国内でも最大級と
いわれる巴形銅器やわが国唯一の石包丁形鉄器、さらには奈良時代の
墨書土器(いずれも山鹿市立博物館蔵)まで出土するなど、複合遺跡と
しても第一級に位置づけられています。
現在、国・県の補助事業として史跡公園整備を前提とした公有化が進
められていますが、いったい菊池川中流域の右岸に広がるこの台地で
古代の人々はどういう生活をしていたのでしょうか。
平成4年2月19日
山鹿市教育委員会
○国指定史跡「方保田東原遺跡」は、まだ全体の一割くらいしか発掘されていないと言うから、その全貌が姿を現すのは、まだまだ先のことになりそうである。
○昨年11月24日に、福岡市天神にあるアクロス福岡で行われた『邪馬台国フェスタin九州』の中で、「邪馬台国・リレー講座」第1日目に、熊本県山鹿市教育委員会文化課審議員である中村幸史郎氏が『邪馬台国と狗奴国』と題して講演なさった。興味深い講演で、一回菊池川流域の遺跡を訪れてみたいと思った。実際、今回訪れてみて、ここに3~4世紀に一つの国が存在したことは間違いなさそうである。
○佐賀県の吉野ヶ里は、国営吉野ヶ里歴史公園として整備されているが、おそらく吉野ヶ里を遥かに凌ぐ遺跡がここには眠っているのではないか。実際、ここを発掘された中村幸史郎氏が確信を持ってそういうお話をなされた。現地を訪れて、中村幸史郎氏の話は本当であることを実感した。
○ただ、邪馬台国が此処であるという氏の説には残念ながら同調出来ない。魏志倭人伝の記述に拠るかぎり、どう考えても、邪馬台国への道はここを向いていない。それに魏志倭人伝が記す邪馬台国は明らかに海洋国家であり、これほど奥まった内陸部にそれを求めることは無理であろう。
○国指定史跡「方保田東原遺跡」を訪れた日は、たまたま日曜日で、あいにく遺跡に隣接している山鹿市出土文化財管理センターは閉じていた。これから先、多くの人々が訪れるだろうから、日曜日にも開館する方向で検討をお願いしたい。