畝尾坐健土安神社 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○畝尾坐健土安(うねおにいますたけはにやす)神社は奈良県橿原市下八釣町に鎮座まします。神社の向かいには、畝尾都多本神社が鎮座。つまり、畝尾坐健土安神社と畝尾都多本神社は、同じ森の中に存在する形になっている。ただし、畝尾坐健土安神社の入り口は西側になっているのに対して、畝尾都多本神社の方は北側になっているから、両方お参りするには、ぐるりと森を半周して、距離にすれば、400辰曚品發ことになる。森の中での両神社の直線距離は50辰睥イ譴討い覆い里任呂覆い。

○畝尾都多本神社のご祭神が泣澤女神で、伊邪那岐(いざなぎ)命が悲しんで泣いた涙から生成した神であったのに対して、畝尾坐健土安神社のご祭神は、健土安比売命(たけはにやすひめのみこと)と天児屋根命となっている。健土安比売命は、古事記が記す波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)のことで、伊邪那美(いざなみ)命が火の神を生んだ時、屎(くそ:うんちのこと)から生成した土の神である。

○それぞれのご祭神は、伊邪那岐命の涙と伊邪那美命の屎から生成から生成した神であるから、一つの森に鎮座ましましても不思議ではないが、両方とも女神であるのが気に掛かる。だから参道も分けてあるのだろうか。

○また、畝尾坐健土安神社の道路を隔てた先には、八釣地蔵で知られる浄土宗八釣山興福寺がある。用明天皇元年(585年)に、物部守屋が飛鳥の橘寺を焼いた時、橘寺の金堂にあった地蔵菩薩が香具山にお隠れなさった。それを後に聖徳太子が香具山の山麓に寺を建て、地蔵を祀ったのが八釣地蔵とされる。

○ちなみに橘寺は聖徳太子誕生の地。また、現在、下八釣町の隣には、膳夫(かしわて)町が存在するように、香具山の麓は本来、膳(かしわで)氏の本拠地であった。聖徳太子の妃、膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)はここの出身。だから、この地に太子信仰があるのは当然である。

○現在、香具山は、山頂に国常立尊神社を祀り、北麓に天香山神社、南麓に天岩戸神社を祀っている。しかし、もともとの香具山の神は、この畝尾坐健土安神社であったのではないだろうか。

○畝尾坐健土安神社の「土安(はにやす)」は、もちろん「埴安(はにやす)」のことである。土器を作るための良い土が取れる地の謂いであろう。もともと膳(かしわで)氏の本拠地であるから、納得出来る地名である。だから畝尾坐健土安神社を齋き祀ったのは、膳(かしわで)氏でないかと思われる。