地域王国論からみた邪馬台国 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○2009年3月1日に、福岡市民会館で開催された『邪馬台国徹底検証第2弾シンポジウム』の基調講演は、元岡山大学教授狩野久氏によって、『地域王国論からみた邪馬台国』と題してなされた。副題には『5、6世紀のツクシとキビ』とある。

○この副題からして、全く古代九州を理解していないと言わざるを得ない。筑紫を「ツクシ」と平気で書ける人に古代九州を語る資格は無い。何故なら「ツクシ」と言う言葉は、大和中央政権によって発せられた差別用語だからだ。わざわざ九州くんだりまできて、九州の差別用語「ツクシ」を平気で使用する感覚がよく分からない。筑紫は「チクシ」である。大和人は「ツクシ」と言うかもしれないが、九州人は「ツクシ」など認めない。ここは「チクシ」の地である。「チクシ」国に来て、何故「ツクシ」などという差別用語を無批判に使用するかがよく分からない。このことについては、本ブログ「しらぬひ考」で詳しく説明している。参照されたい。

○このことは、別に揚げ足を取ろうなどと言う、了見の狭いことを言うつもりで言っているのではない。言わないと何時までも差別用語は無くならないからである。平気で差別用語を使用する人は無感覚か、知らないかの何れかである。だから、面倒でも逐一、指摘して正すしかない。本当はシンポジウムを主催する実行委員会の仕事であると思うのだが。まさか、福岡県教育庁文化財保護課がそんなことも知らないことは無いと信じたい。

○地域王国論の提唱者は門脇禎二氏であると言う。そして、地域王国論とは、およそ5世紀までの日本列島は、いまだ近畿のヤマト政権による安定した統治体制ができておらず、各地に独自の王国が存在したことを主張するものと言う。邪馬台国の3世紀とは200年もの開きがあるが、5、6世紀の日本が地域王国である以上、3世紀に邪馬台国が近畿に存在することはあり得ないとする。

○5、6世紀におけるツクシとキビのヤマト王権との係わりは以下のように述べられる。
  〔沼紊諒布はキビがより濃厚である。
  ⇔消楼茲慮加?憤磴い蝋饌い離バネである。キビは臣姓なのに対し、ツクシは君姓。
  N消楼茲魯筌泪叛権に反乱記事のあるところである。
  の消楼茲砲錬鏡さになってミヤケが数多く置かれた。
以上のような5、6世紀の時代像からみて、3世紀段階に近畿のヤマト勢力が列島各地域をひろく支配下におさめていた状況は考えにくいとする。

○だから、邪馬台国は九州に存在したとする。何故なら3世紀当時、伊都国に一大率を置くなどは近畿のヤマト勢力には出来ないからである。しかし、では、邪馬台国が何処に存在したかについては、氏は専門外であるから指摘出来ないと慎重であった。

○他に、氏が講演されたのは、御名代とミヤケの問題、辛亥銘鉄剣の銘文訓読の問題等であった。氏の準備されたレジメから推察するに、どうやら魏志倭人伝の読み方について三人の業績に触れられるつもりであったらしい。しかし、時間の都合で割愛された。レジメには以下の諸氏の案内があった。
  ‘眛8估遏嵌槎鏝胴諭廖複隠坑隠亜
  榎一雄「魏志倭人伝の里程記事について」(1947)
   同 「邪馬台国の方位について」(1948)
  な震酲雄「邪馬台国の原像」(2002)
おそらく、氏が推挙される魏志倭人伝の読み方は上記の方々に賛同するつもりだったのではないか。

○氏の話は、邪馬台国九州説を側面から支える強力な意見である。多分おっしゃる通りであろう。詳しくは「邪馬台国と地域王国」(門脇禎二著:吉川弘文館)にあるらしい。未見であるからよく分からない。これから読んでみたい。

○地域王国論からみても、邪馬台国はどうやら九州に存在するらしい。話の中心は5、6世紀のことであったが、5、6世紀に近畿の勢力が九州まで及んでいないのであれば、氏のおっしゃる通り、3世紀に近畿に邪馬台国が存在しないのは当然である。魏志倭人伝では、北九州まで邪馬台国の勢力範囲であることは自明のことであるから。

○狩野久氏の講演は、しっかりと文献に基づいており、面白かった。特に御名代については、知ってはいたが、講演で直接伺うと、より説得力があって、納得させられる。これについてももう少し勉強してみたい。ただ、時間切れで、肝心の魏志倭人伝の読み方についての話が聞けなかったのが残念であった。ここが最も気になるところであったのに。