「三国志」『二公孫陶四張傳』 | 古代文化研究所

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○「三国志」魏書第三十、『烏丸鮮卑東夷傅』の中の、「倭傳」(通称:魏志倭人伝)を読むに当たって、避けて通れない人物に公孫度・康・淵の公孫三代がいる。
○公孫三代の第一代公孫度が始めて遼東に據ったのは、中平六年(西暦189年)のことである。二代目公孫康が魏の太祖曹操によって、襄平侯に封ぜられたのは建安十二年(207年)のことになる。後漢が滅亡したのは建安二十年、魏の文帝の時、黄初元年(220年)である。
○三代目公孫淵は、魏の明帝によって太和二年(228年)に遼東太守に任ぜられている。しかし、その後、公孫淵は呉の孫権におもねるなど、反魏的行動があったりして、景初元年(237年)には、自立して燕王を僭称するまでになった。
○魏の明帝は景初二年(238年)春、太尉司馬宣王を派遣して公孫淵討伐を行う。六月には魏軍は遼東に到着している。太尉司馬宣王は襄平を攻撃して、八月壬午に淵父子は斬られている。公孫三代は約五〇年の隆盛を誇った。
○倭の邪馬台国の女王卑弥呼が魏国に朝献したのは、「三国志」に拠れば景初二年(238年)六月とある。しかし、この時期、朝鮮半島はそれどころではなかったはずである。公孫氏が滅亡した後、景初三年(239年)六月に卑弥呼は朝献したと思われる。
○「三国志」魏書第八『二公孫陶四張傳』は、公孫瓚、陶謙、張楊、公孫度、張燕、張绣、張鲁の列伝を載せる。その中で、公孫度・康・淵の公孫三代の傳は以下の通り。
【原文】
 公孫度字升濟,本遼東襄平人也。度父延,避吏居玄菟,任度為郡吏。時玄菟太守公孫琙,子豹,年十八歲,早死。度少時名豹,又與琙子同年,琙見而親愛之,遣就師學,為取妻。後舉有道,除尚書郎,稍遷冀州刺史,以謠言免。同郡徐榮為董卓中郎將,薦度為遼東太守。度起玄菟小吏,為遼東郡所輕。先時,屬國公孫昭守襄平令,召度子康為伍長。度到官,收昭,笞殺于襄平市。郡中名豪大姓田韶等宿遇無恩,皆以法誅,所夷滅百餘家,郡中震栗。東伐高句驪,西擊烏丸,威行海外。初平元年,度知中國擾攘,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」時襄平延裏社生大石,長丈餘,下有三小石為之足。或謂度曰:「此漢宣帝冠石之祥,而裏名與先君同。社主土地,明當有土地,而三公為輔也。」度益喜。故河內太守李敏,郡中知名,惡度所為,恐為所害,乃將家屬入于海。度大怒,掘其父塚,剖棺焚屍,誅其宗族。分遼東郡為遼西中遼郡,置太守。越海收東萊諸縣,置營州刺史。自立為遼東侯、平州牧,追封父延為建義侯。立漢二祖廟,承制設壇墠於襄平城南,郊祀天地,藉田,治兵,乘鸞路,九旒,旄頭羽騎。太祖表度為武威將軍,封永甯鄉侯,度曰:「我王遼東,何永寧也!」藏印綬武庫。度死,子康嗣位,以永甯鄉侯封弟恭。是歲建安九年也。
 十二年,太祖征三郡烏丸,屠柳城。袁尚等奔遼東,康斬送尚首。語在武紀。封康襄平侯,拜左將軍。康死,子晃、淵等皆小,眾立恭為遼東太守。文帝踐阼,遣使即拜恭為車騎將軍、假節,封平郭侯;追贈康大司馬。
 初,恭病陰消為閹人,劣弱不能治國。太和二年,淵脅奪恭位。明帝即(位)拜淵揚烈將軍、遼東太守。淵遣使南通孫權,往來賂遺。權遣使張彌、許晏等,齎金玉珍寶,立淵為燕王。淵亦恐權遠不可恃,且貪貨物,誘致其使,悉斬送彌、晏等首,明帝於是拜淵大司馬,封樂浪公,持節、領郡如故。使者至,淵設甲兵為軍陳,出見使者,又數對國中賓客出惡言。景初元年,乃遣幽州刺史毌丘儉等齎璽書徵淵。淵遂發兵,逆於遼隧,與儉等戰。儉等不利而還。淵遂自立為燕王,置百官有司。遣使者持節,假鮮卑單于璽,封拜邊民,誘呼鮮卑,侵擾北方。二年春,遣太尉司馬宣王征淵。六月,軍至遼東。淵遣將軍卑衍、楊祚等步騎數萬屯遼隧,圍塹二十餘裏。宣王軍至,令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等擊破之。宣王令軍穿圍,引兵東南向,而急東北,即趨襄平。衍等恐襄平無守,夜走。諸軍進至首山,淵複遣衍等迎軍殊死戰。複擊,大破之,遂進軍造城下,為圍塹。會霖雨三十餘日,遼水暴長,運船自遼口徑至城下。雨霽,起土山、脩櫓,為發石連弩射城中。淵窘急。糧盡,人相食,死者甚多。將軍楊祚等降。八月丙寅夜,大流星長數十丈,從首山東北墜襄平城東南。壬午,淵眾潰,與其子脩將數百騎突圍東南走,大兵急擊之,當流星所墜處,斬淵父子。城破,斬相國以下首級以千數,傳淵首洛陽,遼東、帶方、樂浪、玄菟悉平。
 初,淵家數有怪,犬冠幘絳衣上屋,炊有小兒蒸死甑中。襄平北巿生肉,長圍各數尺,有頭目口喙,無手足而動搖。占曰:「有形不成,有體無聲,其國滅亡。」始度以中平六年據遼東,至淵三世,凡五十年而滅。
【書き下し文】
 公孫度、字は升濟、本、遼東襄平の人なり。度の父は延、吏を避けて玄菟に居る、度を任じて郡吏と為す。時に玄菟の太守公孫琙、子の豹、年十八歳にして、早死す。度少き時の名は豹、又琙の子と同年なり、琙見て之を親愛し、師に就きて學ばしめ、為に妻を取る。後に道有るを舉げて、尚書郎に除し、稍くして冀州刺史に遷り、謠言を以て免ぜらる。同郡の徐榮董卓中郎將と為り、度を薦めて遼東の太守と為す。度、玄菟小吏を起こすに、遼東郡の輕んずる所と為る。先時、屬國公孫昭襄平令を守り、度の子康を召して伍長と為す。度官に到り、昭を收めて襄平の市に笞殺す。郡中の名豪大姓田韶等宿遇して恩無し、皆法を以て誅し、夷滅する所百餘家なり、郡中震栗す。東高句驪を伐ち、西は烏丸を擊ち、海外に威行す。初平元年、度中國の攘を擾ふを知り、親しくする所の吏柳毅、陽儀等に語りて曰はく、「漢の將を祚すること絶ゆ、當に諸卿と王を圖るのみ。」と。時に襄平の延里の社大石を生ず、長さ丈餘り、下に三小石有りて之を足と為す。或るひと度に謂ひて曰はく、「此れ漢の宣帝冠石の祥なり、而して里の名先君と同じなり。社主の土地、明らかに當に土地有り、而して三公輔を為すなり。」と。度益喜ぶ。故に河内太守李敏、郡中名を知り、度の為す所を惡み、害する所と為るを恐れ、乃ち將に家屬をして海に入らんとす。度大いに怒り、其の父の塚を掘り、棺を剖き屍を焚き、其の宗族を誅す。遼東郡を分かちて遼西中遼郡と為し、太守を置く。海を越えて東萊諸縣を收め、營州刺史を置く。自立して遼東侯、平州牧と為り、父延を追封して建義侯と為す。漢の二祖廟を立て、制を承け壇墠を襄平城に南に設け、天地を郊祀し、田を藉し、兵を治め、鸞路に乘り、九旒し、旄頭羽騎す。太祖度を表して武威將軍と為し、永甯郷侯に封ず、度曰はく、「我れ遼東に王たり、何ぞ永寧ならんや!」と。印を藏し武庫を綬く。度死し、子の康位を嗣ぎ、永甯郷侯を以て弟の恭を封ず。是の歳建安九年なり。
 十二年、太祖三郡烏丸を征し、柳城を屠す。袁尚等遼東に奔り、康は尚の首を斬り送る。語は武紀に在り。康を襄平侯に封じ、左將軍を拜す。康死し、子の晃、淵等皆小く、眾恭を立てて遼東太守と為す。文帝踐阼し、使を遣はして即ち恭を拜して車騎將軍、假節と為し、平郭侯に封じ、康に大司馬を追贈す。
 初め、恭陰消を病み閹人と為り、劣弱にして國を治むる能はず。太和二年、淵脅かして恭の位を奪ふ。明帝即(位)し淵を揚烈將軍、遼東太守に拜す。淵使を南に遣はし孫權と通じ、往來し賂遺す。權は使として張彌、許晏等を遣はし、金玉珍寶を齎り、淵を立てて燕王と為す。淵亦權の遠く恃むべからざるを恐れ、且つ貨物を貪り、其の使を誘致して、悉く彌、晏等の首を斬り送る,明帝是に於いて淵を大司馬に拜し、樂浪公に封じ、節を持して、郡を領すること故の如くす。使者至るに、淵甲兵を設け軍陳を為し、出でて使者を見、又數、國中の賓客に對して惡言を出づ。景初元年、乃ち幽州刺史毌丘儉等を遣はして璽書を齎し淵を徵す。淵遂に兵を發し、遼隧に逆ひ、儉等と戰ふ。儉等利あらずして還る。淵遂に自立して燕王と為り、百官有司を置く。使者を遣はし節を持し、鮮卑單于の璽を假し、邊民に封拜して、鮮卑を誘呼し、北方を侵擾す。二年春、太尉司馬宣王を遣はして淵を征す。六月、軍遼東に至る。淵は將軍卑衍、楊祚等步騎數萬屯を遼隧に遣はし、塹を圍むこと二十餘里なり。宣王の軍至り、衍をして逆戰せしむ。宣王將軍胡遵等を遣はして之を擊破す。宣王軍をして圍を穿らしめ、兵を引きて東南に向かひ、而して東北に急し、即ち襄平に趨る。衍等は襄平の守り無きを恐れ、夜走る。諸軍進みて首山に至る、淵復た衍等を遣はして軍を迎へ殊に死戰す。復た擊ち、大いに之を破り、遂に軍を進めて城下に造り、圍塹を為る。霖雨に會ふこと三十餘日、遼水暴長し、運船遼口より徑て城下に至る。雨霽れ、土山を起こし、櫓を脩め、發石連弩射を城中に為す。淵窘急す。糧盡き、人相食らひ、死者甚だ多し。將軍楊祚等降る。八月丙寅の夜、大流星長さ數十丈、首山從り東北襄平城の東南に墜つ。壬午、淵の眾潰し、其の子と將數百騎を脩めて圍を突き東南に走る、大兵之を急擊す、當に流星の墜つる處の所なるべし、淵父子を斬る。城破り、相國以下首級千數を以て斬り、淵の首を洛陽に傳へて、遼東、帶方、樂浪、玄菟悉く平らぐ。
 初め、淵の家數怪有り、犬上屋に冠幘絳衣し、炊くに小兒の蒸死甑中に有り。襄平の北生肉を市するに、長圍各數尺、頭目口喙有りて、手足無くて動搖す。占曰はく、「形有るも成らず、體有るも聲無ければ、其の國滅亡す。」と。度始めて中平六年を以て遼東に據り、淵に至る三世、凡そ五十年にして滅す。