「烏丸鮮卑東夷傳ー高句麗傳」を読む⑨ | 古代文化研究所

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○東夷傳の中、韓傳・濊傳・挹婁傳・東沃沮傳に引き続き、高句麗傳を読んで行きたい。
【原文】
 高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戸三萬。多大山深谷,無原澤。隨山谷以為居,食澗水。無良田,雖力佃作,不足以實口腹。其俗節食,好治宮室,於所居之左右立大屋,祭鬼神,又祀靈星、社稷。其人性凶急,善寇鈔。其國有王,其官有相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人,尊卑各有等級。東夷舊語以為夫餘別種,言語諸事,多與夫餘同,其性氣衣服有異。本有五族,有涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。本涓奴部為王,稍微弱,今桂婁部代之。漢時賜鼓吹技人,常從玄菟郡受朝服衣幘,高句麗令主其名籍。後稍驕恣,不復詣郡,于東界築小城,置朝服衣幘其中,歳時來取之,今胡猶名此城為幘溝漊。溝漊者,句麗名城也。其置官,有對盧則不置沛者,有沛者則不置對盧。王之宗族,其大加皆稱古雛加。涓奴部本國主,今雖不為王,適統大人,得稱古雛加,亦得立宗廟,祠靈星、社稷。絶奴部世與王婚,加古雛之號。諸大加亦自置使者、皁衣先人,名皆達於王,如卿大夫之家臣,會同坐起,不得與王家使者、皁衣先人同列。其國中大家不佃作,坐食者萬餘口,下戸遠擔米糧魚鹽供給之。其民喜歌舞,國中邑落,暮夜男女群聚,相就歌戲。無大倉庫,家家自有小倉,名之為桴京。其人絜清自喜,喜藏釀。跪拜申一腳,與夫餘異,行歩皆走。以十月祭天,國中大會,名曰東盟。其公會,衣服皆錦繍金銀以自飾。大加主簿頭著幘,如幘而無餘,其小加著折風,形如弁。其國東有大穴,名隧穴,十月國中大會,迎隧神還于國東上祭之,置木隧于神坐。無牢獄,有罪諸加評議,便殺之,沒入妻子為奴婢。其俗作婚姻,言語已定,女家作小屋於大屋後,名婿屋,婿暮至女家戸外,自名跪拜,乞得就女宿,如是者再三,女父母乃聽使就小屋中宿,傍頓錢帛,至生子已長大,乃將婦歸家。其俗淫。男女已嫁娶,便稍作送終之衣。厚葬,金銀財幣,盡於送死,積石為封,列種松柏。其馬皆小,便登山。國人有氣力,習戰鬥,沃沮、東濊皆屬焉。又有小水貊。句麗作國,依大水而居,西安平縣北有小水,南流入海,句麗別種依小水作國,因名之為小水貊,出好弓,所謂貊弓是也。
 王莽初發高句麗兵以伐胡,不欲行,彊迫遣之,皆亡出塞為寇盜。遼西大尹田譚追撃之,為所殺。州郡縣歸咎于句麗侯騊 ,嚴尤奏言:「貊人犯法,罪不起于騊,且宜安慰。今猥被之大罪,恐其遂反。」莽不聽,詔尤撃之。尤誘期句麗侯騊至而斬之,傳送其首詣長安。莽大悅,布告天下,更名高句麗為下句麗。當此時為侯國,漢光武帝八年,高句麗王遣使朝貢,始見稱王。
 至殤、安之間,句麗王宮數寇遼東,更屬玄菟。遼東太守蔡風、玄菟太守姚光以宮為二郡害,興師伐之。宮詐降請和,二郡不進。宮密遣軍攻玄菟,焚燒候城,入遼隧,殺吏民。後宮復犯遼東,蔡風輕將吏士追討之,軍敗没。
 宮死,子伯固立。順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居郷,又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子。靈帝建寧二年,玄菟太守耿臨討之,斬首虜數百級,伯固降,屬遼東。(嘉)〔熹〕平中,伯固乞屬玄菟。公孫度之雄海東也,伯固遣大加優居、主簿然人等助度撃富山賊,破之。
 伯固死,有二子,長子拔奇,小子伊夷模。拔奇不肖,國人便共立伊夷模為王。自伯固時,數寇遼東,又受亡胡五百餘家。建安中,公孫康出軍撃之,破其國,焚燒邑落。拔奇怨為兄而不得立,與涓奴加各將下戸三萬餘口詣康降,還住沸流水。降胡亦叛伊夷模,伊夷模更作新國,今日所在是也。拔奇遂往遼東,有子留句麗國,今古雛加駮位居是也。其後復撃玄菟,玄菟與遼東合撃,大破之。
 伊夷模無子,淫灌奴部,生子名位宮。伊夷模死,立以為王,今句麗王宮是也。其曾祖名宮,生能開目視,其國人惡之,及長大,果凶虐,數寇鈔,國見殘破。今王生墮地,亦能開目視人。句麗呼相似為位,似其祖,故名之為位宮。位宮有力勇,便鞍馬,善獵射。景初二年,太尉司馬王率衆討公孫淵,宮遣主簿大加將數千人助軍。正始三年,宮寇西安平,其五年,為幽州刺吏母丘儉所破。語在儉傳。
【書き下し文】
 高句麗は遼東の東千里に在り、南は朝鮮、濊貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接す。丸都の下に都す、方は二千里ばかり、戸は三萬。大山深谷多く、原澤無し。山谷に隨ひて以て居を為し、澗水を食す。良田無く、佃作に力むと雖も、以て口腹を實たすに足らず。其の俗は節食し、宮室を治むを好み、居する所の左右に大屋を立て、鬼神を祭り、又、靈星、社稷を祀る。其の人性は凶急にして、寇鈔を善くす。其の國に王有り、其の官に相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人有り、尊卑に各等級有り。東夷の舊語は以為へらく、夫餘と別種と、言語諸事、多くは夫餘と同じ、其の性氣衣服に異なる有り。本五族有り、涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部有り。本、涓奴部が王と為るも、稍微弱し、今桂婁部之に代はる。漢の時、鼓吹技人を賜はり、常に玄菟郡より朝服衣幘を受け、高句麗其の名籍を主せしむ。後稍驕恣にして、郡に詣るを復びせず、東界に小城を築き、朝服衣幘を其の中に置き、歳時來たりて之を取り、今胡、猶ほ此の城を名づけて幘溝漊と為す。溝漊とは、句麗の名城なり。其の官を置くに、對盧則ち、不置沛者有り、沛者則ち、不置對盧有り。王の宗族、其の大加は皆古雛加と稱す。涓奴部の本國主、今王為らずと雖も、大人を適統して、古雛加の稱を得、亦宗廟を立て、靈星、社稷を祠るを得。絶奴部は世、王と婚し、加古雛の號あり。諸の大加も亦自ら使者、皁衣先人を置き、名は皆王に達し、卿大夫の如きの家臣、會同坐起し、王家の使者、皁衣先人と同列なるを得ず。其の國中の大家は佃作せず、坐食する者萬餘口、下戸は糧魚鹽米を遠擔して之に供給す。其の民は歌舞を喜び、國中の邑落、暮夜男女群聚し、相歌戲に就く。大倉庫無く、家家自ら小倉有り、之を名づけて桴京と為す。其の人自らを絜清するを喜び、藏釀を喜ぶ。申一腳を跪拜し、夫餘と異なり、行歩するに皆走る。十月を以て天を祭り、國中大會す、名は東盟と曰ふ。其の公會するに、衣服は皆錦繍金銀以て自ら飾る。大加主簿の頭は幘を著け、幘して餘り無きが如し、其の小加は折風を著け、形は弁の如し。其の國の東に大穴有り、隧穴と名づけ、十月、國中大會し、隧神を迎え國より東上に還るまで之を祭り、木を置いて神坐に隧す。牢獄無く、罪有らば諸の評議を加え、便ち之を殺し、妻子を沒入して奴婢と為す。其の俗婚姻を作し、言語已に定まれば、女の家は大屋の後に小屋を作り、婿屋と名づく、婿は暮に女の家の戸外に至り、自ら跪拜し名のり、女の宿に就くを得るを乞ふ、是くの如くする者再三、女の父母乃ち聽き小屋に就かしめ中に宿らす、傍らに錢帛を頓し、生子已に長大に至れば、乃ち將に婦は家に歸らんとす。其の俗は淫なり。男女已に嫁娶り、便ち稍くして送終の衣を作る。厚く葬り、金銀財幣、送死に盡くし、石を積み封を為す、列して松柏を種う。其の馬は皆小、便ち山を登る。國人に氣力有り、戰鬥を習らひ、沃沮、東濊皆焉に屬す。又小水貊有り。句麗國を作るに、大水に依りて居り、西安平縣の北に小水有り、南は海に流れ入る、句麗の別種小水に依りて國を作る、因りて之を名づけて小水貊と為す、好弓を出だす、所謂、貊弓是れなり。
 王莽、初め高句麗の兵を發して以て胡を伐たんとするに、行くを欲せず、彊迫して之を遣るに、皆亡げ塞を出て寇盜と為る。遼西の大尹田譚之を追撃し、殺す所と為る。州郡縣、咎を句麗侯騊に歸す、嚴尤奏して言はく、「貊人法を犯し、罪は騊に起せず、且に宜しく安慰すべし。今猥りに之に大罪を被せば、恐らくは其れ遂に反かん。」と。莽聽かず、尤に詔して之を撃つ。尤、期して句麗侯騊を誘ひ、至りて之を斬り、其首を傳送して長安に詣る。莽大いに悅び、天下に布告して、更に高句麗を名づけて下句麗と為す。此の時に當りて侯國と為し、漢の光武帝八年、高句麗王使を遣はして朝貢し、始めて王と稱せらる。
 至殤、安の間、句麗王宮數遼東を寇し、更に玄菟に屬す。遼東の太守蔡風、玄菟の太守姚光、宮を以て二郡の害と為し、師を興し之を伐つ。宮詐りて降り、和を請ふ、二郡進まず。宮密かに軍を遣はして玄菟を攻め、候城を焚燒す、遼隧に入り、吏民を殺す。後、宮復た遼東を犯し、蔡風の輕將吏士之を追討し、軍敗れて没す。
 宮死して子の伯固立つ。順、桓の間,復た遼東を犯し、新安、居郷を寇し、又西安平を攻め、道上に于いて帶方令を殺し、樂浪太守の妻子を略得す。靈帝の建寧二年、玄菟太守耿臨之を討ち、斬首虜數百級、伯固降り、遼東に屬す。(嘉)〔熹〕平中,伯固玄菟に屬すを乞ふ。公孫度の海東に雄たるや、伯固大加優居、主簿然人等を遣はして度を助け、富山の賊を撃ち、之を破る。
 伯固死して、二子有り、長子は拔奇、小子は伊夷模なり。拔奇は不肖なりとて、國人便ち伊夷模を共立して王と為す。伯固の時より、數遼東に寇し、又亡胡五百餘家を受く。建安中、公孫康軍を出だして之を撃ち、其の國を破り、邑落を焚燒す。拔奇兄為るに立つこと得ざるを怨み、涓奴と各將下戸三萬餘口を加へて康に詣り降り、還りて沸流水に住む。降胡も亦た伊夷模に叛き、伊夷模更に新國を作る、今日在る所は是なり。拔奇遂に遼東に往き、子有るを句麗國に留む、今、古雛加の駮位居是なり。其の後、復玄菟を撃つ、玄菟と遼東と合ひ撃ち、大いに之を破る。
 伊夷模子無く、灌奴部を淫して、生む子、名は位宮。伊夷模死し、立てて以て王と為す、今の句麗王宮は是なり。其の曾祖の名は宮、生能く開目視す、其の國人之を惡む、長大なるに及び、果たして凶虐にして、數寇鈔し、國殘破せらる。今王生墮の地、亦能く開目視する人あり。句麗相似するを呼びて位に為く、其の祖に似る、故に之を名づけて位宮と為す。位宮に力勇有り、便ち馬に鞍して、獵射を善くす。景初二年、太尉司馬王、衆を率ゐて公孫淵を討つ、宮、主簿大加將數千人をして軍を助けしむ。正始三年、宮西安平を寇し、其の五年、幽州刺吏母丘儉の破る所と為る。語は儉傳に在り。
○高句麗傳の前半部が記録しているのは、高句麗と言う国家の概要である。高句麗の都は丸都と言う。現在の中国吉林省集安県になる。国の大きさは、方二千里ばかり。方二千里なら、周旋すれば八千里となる。倭国の五千余里より大きい。戸は三萬。その地勢は、「大山深谷多く、原澤無し。山谷に隨ひて以て居を為し、澗水を食す。良田無く、佃作に力むと雖も、以て口腹を實たすに足らず。」とあるから、山国である。
○高句麗傳後半部が記録するのは、当時の高句麗の政治史である。新の王莽の話から始まるから、紀元前後からの話である。高句麗王(侯)であった騊や宮、位宮は、高句麗傳では、ひどく乱暴な王君として描かれているが、高句麗にとってはさぞかし英君であったに違いない。敵国である中国をあれだけ悩ませた高句麗王たちである。歴史は一方側からの記述であるから、他方から見る目を養わないと本当の歴史は見えてこない。
○高句麗傳と倭人傳を比較検討すると、極めて類似性があることも注視されよう。妻問婚や葬式の様子などは、明らかに高句麗と倭には共通点が見られる。また、隧神信仰も注目すべきであろう。和冦と言う言葉があるが、性格的にも高句麗と倭は近い気がしてならない。
○高句麗の領土は方二千里ばかり。戸数は三萬。単独では、確かに大国であるけれども、総戸数では、三韓の総戸数十五萬餘戸には及ぶべくもない。当時、三韓が朝鮮半島で如何に大国であったかが分かる。また、倭国がそれ以上の大国であったことも疑うべくもない事実である。
○高句麗傳の総字数は1351字。