住吉大社参詣 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○古代に於いて、住吉神の神力と言うのは、ものすごいものであったらしく、古事記・日本書紀・万葉集には多くの住吉神の記述が見える。

○古事記における住吉神の初見は、伊邪那岐命が黄泉国から逃れ出て、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊ぎ祓いをした時、成りませる神としてである。水底に濯ぐ時に成れる神が底津綿津見神と底筒之男命、水中に濯ぐ時に成れる神が中津綿津見神と中筒之男神、水上に濯ぐ時に成れる神が上津綿津見神と上筒之男神で、底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の三神は安曇連等の祖神、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三神は墨江の大神としている。

○日本書紀の記述もほぼ同様である。ただ、日本書紀では、底筒男命・中筒男命・表筒男命三神の住吉大神の方が先に記録され、後に、底津少童命・中津少童命・表津少童命三神の安曇連等の祭る神を後述している。

○この後に、天皇家の祖先である天照大神や月讀命、素戔嗚尊の三神は生まれ出ている。だから、古事記や日本書紀の記述の仕方に従うと、住吉大神や安曇氏が祭る神々の方が天皇家の神より古いことになっている。

○また、住吉大神や安曇氏が祭る神々が、ともに海神であることも意味深長である。天照大神や月讀命、素戔嗚尊の三神が、それぞれ、天高原と夜と海原を治めると言う極めて抽象的存在であるのに対して、住吉大神や安曇氏が祭る神々は海神であるとともに、それぞれが氏の祖神でもあるから、極めて具体的な神々と言うことになる。

○だから、住吉大神や安曇氏が祭る神々と言うのは、天皇家に先行する神々であって、海神であることが分かる。古代の強大な天皇家の威力を持ってしても、無視できない神々であったらしい。

○ブログ「吉野山の正体」で紹介したが、古事記・日本書紀・万葉集に於ける「住吉」表記の数は以下の通りであった。

  古事記    0例
  日本書紀  11例
  万葉集   31例

○おもしろいことに、古事記には「住吉」の表記例が存在しない。すべて「墨江」となっている。それに対して、日本書紀・万葉集の「住吉」例は全部で42例存在するわけであるが、すべて、「すみのえ」と読ませ、「吉」を「エ」音で読む例は、全部がこの「住吉」表記となっていた。

○もう一つ、興味深いのは「吉師・吉士」である。それぞれの用例は以下の通りである。

  古事記    吉師   3例
  日本書紀   吉師   4例
         吉士  52例
  万葉集    なし(ただし、万葉集は歌の部分しか検討していない。)

○この「吉師・吉士」については、岩波古典文学大系「日本書紀 上」補注(P614)に、

   吉師は吉士とも書く。難波吉士・草壁部吉士など姓(かばね)とみなされる場合と、吉士某とあっ
  て氏の名とみられる場合がある。吉士の姓、又は氏を称するものは、朝鮮諸国への使者として、ある
  いは朝鮮諸国からの使者の接待に当たるものとして書紀には数多くみえている。吉士は古事記伝にい
  うように、新羅十七等官位の第十四にもみえるので、朝鮮起源とおもわれる。ただ、姓氏録には難波
  吉士・草壁部吉士、その忌寸となった難波忌寸・吉志など、大彦命の後とするものが多い。

とあるが、難波吉士など、住吉と関連する人物が多い。気になることであるが、今はよくわからない。住吉大神を祭る津守氏も、記紀には、上記の「朝鮮諸国への使者として、あるいは朝鮮諸国からの使者の接待に当たるもの」として記録されているから、どうも気になって仕方がない。

○現在、住吉大社は底筒男命(第一本宮)・中筒男命(第二本宮)・表筒男命(第三本宮)三神と気長足姫皇后(第四本宮)を祭っている。摂津国一之宮で、気長足姫皇后=神功皇后の御代に、この地に鎮座したことになっている。

○3月8日、朝8時過ぎに、住吉大社に参詣した。なんばから南海電車で10分ほど。駅から大社まで5分ほど歩くと、もう住吉大社である。昔はこの付近まで海であったらしいが、今は海は遙かに遠のいている。鳥居をくぐると、すぐに名物の巨大で派手な反り橋が目の前に現れる。別名太鼓橋。とにかく大きく派手で、いかにも大阪らしい建造物である。橋の左手に手水があって、水はウサギの口から出ている。案内には、住吉大社の創建が卯年の卯月の卯の日であったことに拠るとある。

○住吉鳥居をくぐると、「幸壽門」があり、目の前に第三本宮、その右手に第四本宮、第三本宮の後に第二本宮、その後に第一本宮と並んでいる。左手には授与所と神楽殿がある。朝も早いせいか、人も少なく、清掃も行われていた。本当は第一本宮からお参りするのだそうだが、思わず、手前の第四本宮からお参りした。

○反り橋や石灯籠は大きくて立派で派手であるが、本宮はそれほどでもない。木材も古く黒ずんでいて、良い雰囲気であった。清掃も行き届いていて、気持ちが良い。何より人が少ないのが良い。心静かに参拝出来た。

○第一本宮の左手に門があったので、そこから裏に廻る。多くの末社がずらりと並んでいる先に、これまた派手な赤い幟がたくさん立ち並んでいた。幟には、「商売発達 家内安全 貸種社 初辰まいり」とあった。

○その左手にも大きな幟が立っていた。見ると、「立浪部屋」と言う幟と「猛虎浪関」とある。そういえば、大阪は相撲とともに春が来ると言われているのを思い出した。ちょうど明日が初日である。住吉大社には立浪部屋が巡業にきていたのだ。大きなテントがあったので、中をのぞくと、6,7人のお相撲さんが朝稽古の最中であった。写真を撮りたかったが、躊躇していると、カウボーイハットの叔父さんが携帯でバンバン撮っていて、力士がそれを気にしていた。それで遠慮無く撮らせていただいた。

○朝の住吉大社は気持ちよかった。空気が澄んでいて、とても大阪の雑然とした町中に居るとは感じられない。ここが「墨江(すみのえ)」と呼ばれたころは、反り橋まで波が打ち寄せていたと言う。そんなことを思いながら歩いていると、反り橋の脇に、番(つがい)の鴨が、仲良く二羽ずつあちこちに眠っている。ここは平和だなあと、カメラを向けたら、オスの鴨に睨まれた。メスはそれでも相変わらず寝ていた。