芳野懐古 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○吉野の旅で、一泊ではあったが、宿の吉野館では、大変お世話になった。お陰で充実した旅となった。昔からの宿は、もてなしに心がこもっていて、そのために、申し分なく安らぐことが出来る。部屋から見える吉野の風景も大変なご馳走であった。

○吉野の宿が風変わりなことは、本居宣長が「菅笠日記」に、次のように書いて、おもしろがっている。

   大方、この里は、かの水分(みくまり)の峰より肩下がりに続きて、細き尾の上になん有るめれ
  ば、左右に立ち並みたる。民の家居どもも、前よりこそさりげなく、唯世の常の様に見入れらるれ。
  後ろはみな谷より作り上げて、三階の屋になん有りければ、いづれの家も見渡しの景色良し。さるは
  まらうど宿し、又物売りなどするは、上の屋にて、道より直に入るところなり。次に家人の住まひ
  は、中の屋にて、その下なれば、戸口より階を下りてなん入るめる。今一つ階を下りて、又下なる屋
  は、床なども無くて、ただ土の上に、物うち置きなど、みだりがはしくむつかしきに、湯浴むる所、
  厠などは、そこしもあなれば、日ひとひ歩き困じたる旅人の足は、八重山越えゆく心地して、この階
  ども上り下るなん、いと苦しかりける。されどところの様の言ひ知らずおもしろきには、さることは
  物の数ならず。

○吉野館も全く同じ作りになっていて、宣長がこの宿の造作を面白がったように、何かジャングルジムのような感じがして、普段生活する平屋が、何か物足りない生活空間のように感じられた。

○泊めていただいた部屋には、椿の生け花が飾られていたし、食事をいただいた隣の部屋には、掛け軸と菜の花が飾ってあって、さりげない思いやりが嬉しかった。掛け軸の字が達筆過ぎて、不明の私には全てを読むことが出来なかった。帰ってから調べたら、次の詩であることが分かった。

     芳野懐古
       河野鐵兜
   山禽叫断夜寥寥
   無限春風恨未銷
   露臥延元陵下月
   満身花影夢南朝
  【書き下し文】
  山禽叫び断へて 夜は寥寥たり
  無限の春風 恨み未だ銷えず
  露臥す 延元陵下の月に
  満身の花影 南朝を夢む

○作者の河野鐵兜は江戸時代末期の詩人。文政八年(1825年)から慶応三年(1867年)の人。延元陵とは、後醍醐天皇の御陵、塔尾陵の別名。延元は後醍醐天皇の御代の元号。

○掛け軸の書は、吉野館の大女将の作であると言う。号は「桜花」とあった。

○「芳野懐古」の詩人、河野鐵兜が生きた幕末は尊皇の時代であった。後醍醐天皇や楠正成がクローズアップされた時代でもあった。確か、旧制中学の漢文の教科書でこの詩は見たことがあるような気がする。

○如意輪寺にあった後醍醐天皇の辞世の歌と楠正行の歌も紹介しておきたい。

                  後醍醐天皇
  身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕に天を望まん
                  楠 正行
  かゑらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとゞむる

○ともあれ、吉野館にはお世話になった。御礼申し上げたい。