吉野山は何者か⑮ー「可愛・吉・延」の文字使用例 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

イメージ 1

○このように、彦火瓊々杵尊の御陵である可愛山陵は、全く正体不明の御陵である。現在、鹿児島県薩摩川内市の亀山(現、薩摩川内市新田神社)の地が最有力とされているが、おそらく違うのではないか。何故かというと、可愛山陵から高屋山陵、吾平山陵と続くのに、その比定地は、てんでんバラバラである。父から子、そして孫へと続くのに、なぜかその御陵は各地に存在する方と言うのはおかしいことではないか。多分、高屋山陵や吾平山陵は可愛山陵の近くに存在するはずである。そうでないと、話として、つじつまが合わない。

●前にも述べたが、薩摩國国府付近に可愛山陵が存在し、大隅國国府付近に高屋山陵が存在すると言う構図は、極めて恣意的なものを誰でも感じるはずだろう。薩摩国や大隅国の建国当時、薩摩国府や大隅国府が存在した地は、それぞれの国の中心であったとは到底思えない。そんな辺境の地で、しかも遠く離れた地に父子二代の御陵が存在するはずもなかろう。

●逆に、どうでもよかった吾平山陵の存在地が真実の御陵地である可能性の方が極めて高い。それに吾平山陵の存在する地の近くには、もともと高屋山陵と言われた国見山が存在するわけであるから、可愛山陵もその近辺に求めるのが自然であろう。そういう事実を誰も知らないし、認めようともしない。

○話を元に戻して、古事記・日本書紀・万葉集に於ける「吉」と「延」の字について考えてみたい。

○先に「吉」字の方から進めよう。古事記・日本書紀・万葉集では、「吉」字は、「き・きち」「よ・よし」「え」の三通りが存在した。しかし、「え」と読むのは、すべて「住吉」の使用例に限定された表現であることも分かった。日本書紀と万葉集で、42例も「住吉」の表記が存在するのに、何と古事記には「住吉」の表記さえ存在していないのである。我々の常識というものは実にいい加減なものであることがよく分かると言うものだ。知っているようで、人は案外ものを知らない。何事にも、用心が肝心である。

●だから、古事記・日本書紀・万葉集では、「吉」字は、「き・きち」の音読か、「よ・よし」の訓読しか存在しないと考えるべきであろう。橋本進吉の「古代国語の音韻に就いて」では、「ヤ行のエ」の字に「吉」の字を載せるが、それはあくまで「住吉」表記に限定されるものであることを、我々は明記すべきであろう。

●だからと言って、「吉」字は「エ」と読まないかと言うと、それもまた間違いである。「吉」字は間違いなく「エ」と読むのである。日本書紀巻二十七に天智天皇が亡くなった時、歌われた童謡(わざうた)が載っていて、次のように表記されている。
  美曳之弩能 曳之弩能阿喩 阿喩擧曾播 (以下略)
  (み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは)

●この例から分かるように、表記は「吉野」であっても、読みは「えしの」であるわけである。では、すべて「吉野」は「えしの」と読むのかと言うと、そうとも言えない。万葉集巻十八には次のような表記が見られる。
  美与之努能    (み吉野の)  (4098)
  余思努乃美夜乎  (吉野の宮を) (4099) 
  与之努河波    (吉野川)   (4100)

●ここでは「吉野」はすべて「よしの」と読む。だから、分かるように、もともと「吉」をヤ行の「え」で読むか、ヤ行の「よ」で読むかと言うことであって、それが混用された時代が奈良時代ということになる。だから「吉野」はこの時代、「えしの」とも「よしの」とも読んだことが分かる。

●しかし、最も古い時代には、「吉」はやはり「え」音であったのではないか。それが時代が下るにつれて「よ」音へと変化した。その過渡期がちょうど奈良時代あたりであったのではないか。 

○最後に「延」字についてである。古事記・日本書紀・万葉集のころ、「延」字は万葉仮名として「え」と読んだらしい。使用例から、それはヤ行音であったことも知られる。例外的に「はふ」「ひく」と訓読した例も少し認められるはするけれども、ほとんどは「ヤ行え音」である。

●「延」字の使われ方にも特徴がある。「延」字は独立して一字で使用されることはない。一字一音の万葉仮名として使用されているものばかりである。また、日本書紀にほとんど使用されていないのも特徴的である。

○これで、古事記・日本書紀・万葉集における「可愛・吉・延」の文字使用例について、すべて述べた。後は、吉野山について、再度検討することになる。字数が尽きたので、次回に繋げる。