邪馬台国の虚像と実像⑫ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○前回まで、倭の地に存在する魏と交渉のあった三十国について、検討を加えてきた。そして、邪馬台国は錦江湾一帯、狗奴国が救仁郷になることを確認した。

○今回は、そのことが日本の史書では、どう扱われているかを検討してみることにする。もちろん、魏志倭人伝は三世紀の書物であって、これから検討する古事記・日本書紀は八世紀の書物に過ぎないことは、十分考慮すべきである。しかし、日本にはこれ以上、古い史書は存在しないのであるから、これに頼るしかないわけだ。

○先に検討した、安本美典が古事記・日本書紀から出発して、邪馬台国を甘木市馬田に比定したことは興味深い。また、彼はその後、「邪馬台国は、その後どうなったか」を著し、高千穂論争を論じ、邪馬台国が甘木市馬田から南九州に移動したと説く。

●安本美典は、なぜ、邪馬台国を南九州に移動させざるを得なかったか。それは、初代天皇である、神武天皇の東征の出発点となったのが、南九州であったからにほかならない。加えて、古事記・日本書紀の記述を信用する限り、日本創世は南九州から始まっているからである。

●安本美典は、「邪馬台国は、その後どうなったか」の中で、主に、高千穂論争について、言及している。その結論についても、慎重に次のように記している(P392)。

   以上のようにみてくると、南九州時代の都についての伝承地からみても、高千穂の峰は、霧島山と
  する説のほうが、西臼杵郡高千穂とする説よりも、有利であるようにみえる。
   神武天皇の東征の出発点の伝承地の美々津なども、西臼杵郡よりも、やや南である。
   この伝承地の位置なども、高千穂の峰を、霧島山とする説のうえになりたつようにみえる。

●現代において、高千穂論争なるものの存在自体を知る人の方が少ないのではないか。古事記・日本書紀に拠れば、天孫降臨の地を高千穂の峰とする。その高千穂の峰が存在するのが、宮崎県西臼杵郡高千穂町なのか、鹿児島県と宮崎県に跨る霧島山とするのか、と言う問題である。

●安本美典は、古事記・日本書紀をよく読み、現地を視察した結果、上記のような結論に至った。もう少し、古事記・日本書紀をよく検討し、現地に詳しければ、もっと具体的で、はっきりとした証拠や論拠が提示出来たはずである。詳しくはブログ「神代三山陵の研究」 銑を参照されたい。そこに詳しく述べている。

○その点、梅原猛の「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」は逆に、宮崎県西臼杵郡高千穂町を天孫降臨の地に比定している。梅原猛も旧日向国の地を丹念に歩き廻っている。その上で、高千穂町を天孫降臨の地に比定した。

●梅原猛は、ニニギノミコトが天孫降臨の地としたのが、二上山であるとし、それがこの地に存在すると言う(P54)。

   確かに、この日向の高千穂には、天孫降臨という事件の裏の主役サルタヒコの跡がはっきり残って
  いた。そればかりではない、『古事記』『日本書紀』『風土記』などにあらわれた天孫降臨の場所を
  示す山々が残っている。先に引いた『日向風土記』の逸文では、ニニギノミコトは二上山に降りたと
  いう。(以下略)

●ところが、高千穂町には、二上山の他に、別に槵觸岳と言う山が存在する。二上山の麓には、二上神社・三カ所神社が存在し、槵觸岳には、槵觸神社が鎮座している。ということは、天孫降臨の地が二カ所存在することになる。これはおかしな話である。

○このような安本美典や梅原猛の論を読むと、あたかもそれが真実であるかのように、錯覚に陥る。ともに旧日向各地を実見し、旧日向の地を隈無く歩いているように思われる。掲載された、多くの記録写真もそれを裏付けるかのようである。しかし、二人が歩いたのは、まさしく旧日向国作られた後世の名所旧跡に過ぎず、古事記や日本書紀が記す本当の天孫降臨の地とは、微妙にズレがある。

●ここには、多くを書けないので、結論だけを紹介すると、「古事記」「日本書紀」には、天孫降臨の地について、次に示す六つの記録が見られる。

  「古事記]    竺紫日向之高千穂之久士布流多気(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけ)
  「日本書紀」本文 日向襲之高千穂峯(ひむかのそのたかちほのたけ)
           槵日二上天浮橋(くしひのふたがみのあまのうきはし)
       一書 |淹臚鋐?眄虔槵觸之峯(つくしのひむかのたかちほのくじふるのたけ)
       一書◆‘鋐槵日高千穂之峯(ひむかのくしひのたかちほのたけ)
       一書 日向襲之高千穂槵日二上峯天浮橋(ひむかのそのたかちほのくしひのふたがみの
                           たけのあまのうきはし)
       一書ぁ‘鋐?映傾眄虔翕沙格?覆劼爐のそのたかちほのそほりのやまのたけ)

●これまで、高千穂論争はこれらの記録によって、、天孫降臨の地の伝承の残る、宮崎県西臼杵郡高千穂町と、鹿児島県と宮崎県に跨る霧島山との間で、争われてきた。

●しかし、天孫降臨の地が二つ存在することはあり得ない。どちらかが本当であると判断せざるを得ないのである。しかし、そのどちらも自説を主張して譲らない。江戸時代以来、学者の意見もまちまちであって、確証がない。

●では、本当はどちらが真実の天孫降臨の地であるのか。判断は簡単に出来る。それは、上記の六つの記録すべてを充足する方が本当の天孫降臨の地にほかならない。

●もともと、天孫降臨の地はひとつである。それを様々に記録しているのを示したのが古事記や日本書紀の記録になる。だから、表現は違っても、同じものを表現を変えて記録しているのであれば、そのすべての表現に当てはまる方が本物と言うことになるはずである。

●そう考えると、上記のすべての表現の条件を備えている山が天孫降臨の地となるはずである。そんな山は世界に二つとはない。その条件を列記すると、以下のようになる。

  ー鎧隋紛綵)の日向(国)に存在する。
  高千穂と言う名の山である。
  5彁良枸多気・槵觸峯・槵日峯(先の尖った山・異形の山・火の山・日に輝く山)である。
  て鋐?聞顱暴院ε困紡減澆垢觧海任△襦
  テ鷯緤?併劃困二つある山)である。
  ε敬盒供米悊里茲Δ謀袈?坊劼った山)である。

●これが天孫降臨の地の山である。この条件に該当する山は、どう考えても、霧島山の高千穂の峰以外に考えられない。

●高千穂町は観光の町であり、神話と神楽で知られた町である。今、高千穂鉄道存続問題で大変な事である。そんな時に、こんな話はあまりしたくはないのだが、事実は事実である。古事記や日本書紀が記している記録である。天孫降臨の地は、古事記と日本書紀からしか出現しない。その古事記と日本書紀が提示する天孫降臨の地は、霧島山高千穂峰でしかあり得ない。

○ここでは、日本創世の記録を古事記・日本書紀に求めた。ここから日本は始まったと古事記・日本書紀は説く。では、その後日本はどうなったか。次回に繋げたい。