魏志倭人伝を読む⑮ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○今回は、狗奴国について述べることになる。倭人の国三十国の最後に出てくる国である。狗奴国についての魏志倭人伝の記事を再掲すると、

   此れ女王の境界の盡くる所なり。
    其の南に狗奴国有り。男子王たり。
    其の官に狗古智卑狗有り。
    女王に属せず。
    (帯方)郡より女王国に至ること萬二千余里なり。
    此女王境界所盡。(7)
    其南有狗奴国男子為王。(10)
    其官有狗古智卑狗。(8)
    不属女王。(4)
    自郡至女王国萬二千余里。(11 計40字 合計556字)
とあった。「此れ女王の境界の盡くる所なり。」の記述から、狗奴国は、邪馬台国を中心としたグループ国家とは別の、独立した存在であったことが分かる。

○邪馬台国を中心としたグループ国家の南に狗奴国は存在していた。男子王の存在と、狗古智卑狗と言う官があった。はっきりと、女王国に所属していないことも明記されている。

○これまで、邪馬台国を研究してきた人たちは、この狗奴国の扱いにひどく苦労している。邪馬台国近畿説では、狗奴国を毛野国に当てたり、熊野国に当てたりしている。九州説では、肥後国球磨郡、肥後国菊池郡城野郷、伊予国風早郡河野郷、熊襲国、などに当てている。

○狗奴国は邪馬台国の南に位置すると言うのであるから、その方角を無視しない限り、毛野国説や伊予国風早郡河野郷説はあり得ない。また、狗奴国は、邪馬台国を中心としたグループ国家と敵対するほどの国家であったと言うのだから、それほど小さな国ではなかろう。

○熊襲説は北九州邪馬台国論者にとって、格好の狗奴国となっている。ただ、それは八世紀の歴史書である古事記や日本書紀の記録であって、三世紀の世界の話ではない。加えて、古事記や日本書紀の記録によると、倭国の起源は熊襲国になっている。その当たりの説明が熊襲国説では、説明不可能だろう。

○また、「狗古智卑狗」の官名に注目した菊池郡説もおもしろいが、それだけで肥後国菊池郡城野郷狗奴国と規定するには、説得力に欠ける。

○邪馬台国南九州説にとって、致命的なのが、実はこの狗奴国の存在であった。南に狗奴国と言う大国を探すことは難題である。結果、方角を誤りとし、伊予国風早郡河野郷あたりに狗奴国を求めるしかなかった。

○しかし、南九州には、確かに、かつての狗奴国の残骸がそっくり残っている。鹿児島の歴史に詳しい方なら、そのことは誰もが知っている。それは江戸時代の記録である「麑藩名勝考」、「三国名勝図会」、「薩隅日地理纂考」などに、しっかりと記録されている事実である。これまで、そういう事実が明らかにされなかったから、このような混乱が生じたのではないか。

●「麑藩名勝考」は、寛政七年(1795年)に白尾国柱によって著された。ほぼ薩摩・大隅を網羅し、日向国の一部を記す。「麑藩名勝考」巻七・大隅の条に、
  救仁湊(クニノミナト) 現存六帖。即内浦の湊にて、此処及び大崎・志布志の地を救仁院、亦救仁              郷と云ふ。
とある。「現存六帖」とは、書名である。現在の内之浦港を救仁湊と称していたことが分かる。また、ここ内之浦から大崎・志布志に至る広大な地域を救仁院、救仁郷と称していたことも明らかである。

●同じ「麑藩名勝考」巻八・日向の条に、
  諸縣郡志布志郷 大崎郷・志布志郷を救仁院とす。
とある。救仁院、救仁郷の北部は日向国に属していた。つまり、救仁院、救仁郷と言うのは、大隅国中央部から日向国の南部にまたがる地域であったらしい。

●「三国名勝図会」下巻巻之四十九、内之浦の条に、
  内之浦港 地頭館より卯方、三町程。南浦村の海湾なり、湾を環りて、層巒曲岸倒影を涵し、岸極れ       ば、白砂敷て、朝輝に映し、蒼松連なりて、晩翠を含む、(中略)小白木港とも云ふ、或       は曰く、現存六帖に救仁港見ゆ、此港なりと。
として、「麑藩名勝考」と同じく、内之浦港が救仁湊であるとしている。

●同じ「三国名勝図会」下巻巻之六十、日向国・諸縣郡の条に、
  志布志  本府より寅の方、二十里許にあり、當邑は、救仁院、及び松山郷堀内村を併せて、地頭を       置く。地頭館は志布志村にあり、武備志、志布志に作り、東藻會意、思婦洲に作る。
とあって、内之浦から大崎・志布志に至る広大な地域が救仁院、救仁郷であることがわかる。

●「薩隅日地理纂考」巻二十七、諸縣郡志布志郷の条に、
  建久八年日向の国図田帳に救二院九十町地頭右兵衛佐殿とある。救二院は即ち此の地なり。建久の   頃、救仁院平八成直郡司と舊記に見えて、其れ以前の領主、詳らかならず。
とある。やはり、大崎・志布志あたりが救仁院、救仁郷であったと思われる。

○前回、邪馬台国に推定した鹿児島県の錦江湾一帯には、ほとんど、古代の遺跡・遺物が存在しないことに言及したし、その理由も述べた。それに較べて、この救仁院、救仁郷であったと思われる一帯には、多くの古墳が存在することも注目される。

○例えば、東串良町の唐仁古墳群には前方後円墳が六基・円墳百三十三基が存在する。その中の唐仁大塚古墳は全長百三十七辰發△訛膰妬である。本来、長径百八十五叩Ω絮濾径百一叩高さ12、6辰料以?絮瀛であったとされる。(この唐仁古墳群については小冊子ながら、唐仁大塚神社の嶋戸貞良氏著の「肝屬平野の古代文化」に詳しい。)

○さらに大崎町横瀬にある横瀬古墳は全長百三十五辰料以?絮瀛だし、志布志町夏井にある飯盛山古墳は全長八十辰發料以?絮瀛である。(この古墳も嶋戸貞良氏によって発見されている。)この古墳は残念ながら現在では完全に破壊され、国民宿舎ダグリ荘が建ち、ダグリ岬公園となっている。しかし、岬に存在し、海上からよく見える古墳でもある。

○また、唐仁古墳群のすぐ南の塚崎古墳群にも前方後円墳四基・円墳三十九基が記録されている。他にも串良町に上小原古墳群(古墳数二十五基)、岡崎古墳群(二十一基)、大崎町に神領古墳群(十五基)、有明町には大塚古墳群(六基)などがある。

○現在、この付近の古墳は鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也助教授によって、発掘が続いている。前にも述べたが、宮崎県や鹿児島県の発掘調査はまだまだ不十分であるように思われてならない。発掘のほとんどは戦前とかの古い時期のものが多く、今後、本格的に充分な調査研究が行われれば、驚くような発見があるように思える。期待したい。

○狗奴国と言う国は、その後、救仁郷・救仁院と称されていたことが分かる。ここなら、大きな国が存在していたとしても不思議ではない。その地域は広く、現在の内之浦から、志布志辺りまでであった。宮崎県串間市辺りまで含んでいた可能性も高い。串間周辺には古墳も多い。

○串間市からは、多分日本最大で唯一といっていいくらいの「穀璧」が出土している。このことは、あまり知られていないし、問題とされることも少ない。しかし、この「穀璧」というのは、中国の周から漢代の玉器のうち、皇帝が諸侯に与えたものである。本土中国にもそう数多く存在しないし、まして日本にはこれしかないものである。そんな数少ない貴重な古代の遺物が此の地から出土している。これらの事実はこの周辺が古代において文化的に相当栄えていたことを裏付ける根拠になる。この「穀璧」は現在は国宝となって東京の前田育徳会蔵となっている。

○遺物は元の場所にあってこそ、その輝きを取り戻す。「穀璧」はやはり串間にあるべきものであろう。そうすれば、「穀璧」の本来の歴史的意義が大きく取り上げられることになるし、理解もしやすくなる。博物館に存在する仏像を見学すれば分かるように、仏像は寺にあって始めて威光を放つ。遺物もその歴史的風土・風物の中にあってこそ、その異彩を放つことが出来るはずだ。

○同じように、西都市百塚原古墳群から出土した金銅製鞍橋金具後輪(国宝:五島美術館蔵)や、西都原古墳群169号墳から出土した家形埴輪や舟形埴輪(重要文化財:東京国立博物館蔵)なども、早急に現地に返還されるべきものであろう。

○これが狗奴国である。古事記や日本書紀が記す神代三代の尊の活躍の地は、どうやらこの附近であることは、前に、すでに、このブログで、「神代三山陵の研究 銑」に詳述した。参照されたい。