神代三山陵③ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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◯神代三山陵,如△垢任墨辰靴討い襪、神代三山陵とは、以下の三山陵を指す。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

◯これらの三山陵については、全て「日本書紀」神代下に記載されていることである。「古事記」には、わずかに、二代・日子穂穂手見命の御陵を、
  御陵者、即在其高千穂山之西也
  (御陵は、即ち、其の高千穂の山の西に在り。)
と記すのみで、初代・彦火瓊々杵尊の御陵や三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵についての記載は一切ない。大体、「古事記」では、神代三代の記述そのものが極めて少ない。三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊などに至っては、漢字数にしてわずか九十二文字を数えるばかりである。

◯順序としては、神代三代の最初である、初代の彦火瓊々杵尊の御陵、可愛山陵から順番に始めるべきであろうが、比較的、問題点が明らかにし易い「古事記」にも記述のある、二代の彦火火出見尊の御陵、高屋山上陵から始めることにする。

◯「古事記」の記述に従えば、神代二代の彦火火出見尊の御陵である、高屋山陵は「高千穂の山の西に在」ることになる。その点、明治天皇御裁可の鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵は、ちょうど霧島山高千穂峯の真西に存在しているから、「古事記」の記述にぴったり当てはまる。

◯ところが、寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」には、一切その記述がない。「麑藩名勝考」は薩摩藩全部を網羅し、名所旧跡・神社仏閣等を詳述しているにもかかわらず、何もそれに記載されていないのは、どう考えても納得出来ないことである。

◯「麑藩名勝考」が高屋山上陵としているのは、肝属郡内浦郷小串村である。「麑藩名勝考」では、図説まで付けて、高屋大明神について詳述している。少なくとも、江戸時代半ばには、高屋山上陵はここにあると、薩摩藩では信じられていたことは間違いない。

◯また、天保十四年(1843年)刊行の「三国名勝図会」には、姶良郡溝辺郷の条に、
  【鷹大明神社】溝辺村にあり。祭神分明ならず。神体深秘の旨ありとて、古来親しく覗うことを
         得ず。例祭2月初酉日。11月中酉。社伝に応永18年、勧請すと云ふ。
         宝徳3年6月社殿造立の棟札存す。當郷の宗廟なり。社司宗像氏。
とあるだけで、ここにも何ら、高屋山陵に関する記述はない。

◯「三国名勝図会」においても、高屋山上陵は、肝属郡内浦郷小串村にあるとし、「高屋神社高屋宮蹟」・「高屋山上陵」・「高屋宮蹟甕図」などの絵図を載せて、高屋山上陵を詳述している。江戸時代後期においても、まだ、高屋山陵は肝属郡内浦郷小串村に存在した。

◯明治4年(1871年)刊行の「薩隅日地理纂考」になって、初めて、姶良郡溝辺郷麓村に高屋山上陵が存在することが明記されることになった。しかし、その根拠も、実は全く不確かで、いい加減なものに過ぎない。

◯当時、神代三山陵の調査が各地で行われていた。高屋山陵についても、いくつか候補地があった。そのいくつかの候補地の中で、姶良郡溝辺郷麓村に鎮座する鷹大明神社の音が、「タカ」と言う音であったし、また、「古事記」に高千穂峯の真西と記載されていて、それにちょうど合致することから、鷹大明神社が存在していたところを、勝手に造作し、高屋山陵としたのが、事実であるらしい。

◯ちなみに、この鷹大明神社は、高屋山陵認定後、南に2劼曚匹里箸海蹐冒座させられている。寂しく狭隘で、辺境な谷の中に、今は鷹大明神社は鎮座させられている。もともと鷹大明神社が鎮座していたところは、国道504号線沿いの人通りの多い所にあったと思われるのに、かわいそうと言うか、気の毒な話である。「三国名勝図会」によれば、鷹大明神社は溝辺郷の宗廟であったと言う。あまりにひどい扱いではないか。

◯これらの話を総合すると、肝属郡内浦郷小串村にある高屋山上陵を否定する理由など、ほとんどないことが分かる。あるとすれば、「古事記」の記述があるくらいであろう。ただ、前にも触れたが、「古事記」には、神代三代の記述そのものが極めて少ない。「古事記」の記述を当てにすることには、無理があると考えるのが自然ではないか。、「古事記」には、他の山陵の記述もないし、肝心の「高屋山陵」と言う名の記述すらない。

◯このように考えると、神代二代の彦火火出見尊の御陵である、高屋山陵は、鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵ではないことが分かる。現在、溝辺町の高屋山陵は、宮内庁管轄の御陵墓参考地となっている。それに対して、肝属郡内浦郷小串村の高屋山陵はなおざりにされたままで、荒れるに任せられている。里宮と思われる肝属郡肝属町北方枦ノ木の高屋神社にしても、同様である。

◯高屋山上陵を再確認し、顕彰することが、今、私が望むことである。