廬山 | 古代文化研究所:第2室

古代文化研究所:第2室

ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2025年5月23日から6月3日に掛けて、中国を旅行して来た。昨年12月の「湖北省湖南省周遊」旅に続く旅行だった。題して、「玄中寺参詣旅」とした。主たる目的が中華人民共和国山西省呂梁市交城県にある玄中寺参詣にあったからである。

○前回、ブログ『玄中寺参詣旅を終えて』で、一応、「玄中寺参詣旅」は終了したことになる。ただ、当古代文化研究所が何故、玄中寺を目指したのか。そのことがまるで抜け落ちている気がしてならない。

○それで、前回、ブログ『廬山の慧遠』を書いた。その中で、法然の「浄土五祖」や親鸞の「七高僧」を説明するうちに、肝心の廬山の慧遠を案内するスペースが無くなってしまった。それで今回の冒頭に、廬山の慧遠を案内しておきたい。

      慧遠

後趙・延熙二年(三三四)—東晋・義熙一二年(四一六)八月六日。後の浄影寺じょうようじ慧遠と区別するため、廬山ろざん慧遠または廬山寺慧遠とも称す。中国・東晋時代に活躍した僧。道安弟子であり、『般舟三昧経』に基づく念仏を修した。また同志と共に念仏実践の誓約を行った。これにより後世、いわゆる白蓮社の祖、蓮宗(中国浄土宗)の初祖として称えられることとなった。山西省北部の雁門郡楼煩県の生まれ、本姓は賈氏。一三歳のとき、許昌、洛陽に遊学して儒教の六経や老荘を学んだ。二一歳のとき、江南に渡り笵宣に師事して隠遁生活を送ろうとしたが、内乱状態であったため断念した。そのとき道安の名を知り、弟の慧持とともに道安のもとへ向かい、『般若経』の講義を受け、「儒道九流はみな糠粃こうひなるのみ」(『高僧伝正蔵五〇・三五八上)と言って、出家して道安弟子となった。その後二四歳ですでに仏典の講義を行っている。その際、『荘子』を用いて説明したところ、その聴聞者の疑問が解けたので、道安は中国古典の用語や思想で仏教を説明する「格義」に批判的であったが、慧遠に限って外典を用いることを許可したという。東晋・興寧三年(三六五)、道安とともに襄陽に移ったが、前秦・建元一五年(三七九)に、秦王苻堅によって道安長安に連れ去られた。戦乱を避けて南下する途中、廬山の秀峰に接し、また廬山西林寺に住する同門の慧永の要請で、太元九年(三八四)、廬山東林寺に入り、以後三十余年の間、戒律を遵守し、また禅観を修行しつつ廬山に留まった。僧伽提婆そうぎゃだいば廬山に招いて『阿毘曇心論』『三法度経』の訳出を依頼し、それぞれ序を著している。また出家者は国家権力の外にあるとして『沙門不敬王者論』を著した。また鳩摩羅什長安訳経していることを知ると、慧遠は手紙を送って羅什と親交を結び、大乗仏教に関して、法身や、大乗と小乗の相違などについて質問した。このときの問答をまとめたものが『大乗大義章』として現存する。著作は『出三蔵記集』によれば、上述のものも含めて「十巻五十余篇」とされている。また、元興元年(四〇二)、廬山般若台阿弥陀像前において、一二三人の同志と共に『般舟三昧経』に基づく念仏三昧を実践することを誓約した。これにより慧遠蓮宗の初祖として扱われるようになった。隋・唐代初期の道綽迦才かざい善導らは慧遠浄土教祖師として扱う姿勢はなかったが、唐中期の法照飛錫らの頃から、慧遠蓮宗の初祖として扱い始める傾向が見られ、この見解は宋代に至って定着したものと考えられる。

  慧遠 - 新纂浄土宗大辞典

○ここにあるように、廬山の慧遠が白蓮社の祖であり、蓮宗(中国浄土宗)の初祖であることが判る。ただ、それは法然の「浄土五祖」や親鸞の「七高僧」に登場する曇鸞や道綽、善導とは、直接に結び付いているわけではない。

○それで、法然の「浄土五祖」や親鸞「七高僧」から漏れることになったと思われる。それでも、四世紀に、廬山の麓で、中国浄土宗が発生したことは間違いなさそうである。それが廬山の慧遠であり、東林寺になる。

○今回は、廬山が気になったので、併せて案内しておきたい。

      廬山

中国江西省九江市南部にある名山。もと南鄣山なんしょうざんと呼ばれ、南康山、匡廬きょうろ山、靖廬山ともいう。東晋・太元年間(三七六—三九六)に道安門弟慧永により西林寺、慧遠により東林寺が創建され、慧遠廬山において念仏道場を開き般舟三昧を修した。慧遠の下には道俗問わず多くの同信者が集い、後世この念仏結社は白蓮社と呼ばれるようになり、廬山中国浄土教の一大本山となった。また謝霊運、陶淵明、李白、白居易などの名立たる詩人が廬山を訪れて詩文を遺しており、優美な山水は古くから知られている。廬山浄土教者だけではなく、儒者・道士・禅者などの往来も多く、南宗禅の慧能や北宗禅の神秀らも参じたとされる。元代には白蓮宗の復興を目指し『廬山蓮宗宝鑑』を著した普度東林寺に住しており、廬山浄土教を求めて入元した澄円普度に師事し、帰朝後に白蓮社の遺風を継いだ旭蓮社を創始した。太平天国の乱や文化大革命により多くの寺廟が破壊されたが、修復も進んでいる。

  廬山 - 新纂浄土宗大辞典

○当古代文化研究所では、2013年6月に廬山を訪れている。その時は武漢から瑞昌站まで電車で来て、瑞昌站でタクシーを拾って九江市柴桑区陶渊明纪念馆を訪れた。

  ・テーマ「廬山・九江」:ブログ『瑞昌から廬山鎮まで』

  瑞昌から廬山鎮まで | 古代文化研究所

その後、タクシーで廬山に登っている。

  ・テーマ「廬山・九江」:ブログ『九江県沙河街鎮から廬山へ』

  九江県沙河街鎮から廬山へ | 古代文化研究所

○二回目の廬山訪問は2014年6月で、この時、廬山西林寺、廬山東林寺の両方に参詣している。

  ・テーマ「滕王閣&廬山鎮:東林寺」:ブログ『西林寺参詣』

  西林寺参詣 | 古代文化研究所

  ・テーマ「滕王閣&廬山鎮:東林寺」:ブログ『東林寺参詣』

  東林寺参詣 | 古代文化研究所

○蛇足ながら、白居易:「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」詩は、廬山東林寺で詠まれたものである。次のブログに書いている。

  ・テーマ「廬山・九江」:ブログ『白居易:香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁』

  白居易:香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁 | 古代文化研究所