誉田八幡宮の歴史 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2023年2月1日、応神天皇陵へ詣でて来た。その応神天皇陵の南側に位置するのが誉田八幡宮である。御祭神は、当然、応神天皇だと言うことになる。もともと、八幡宮自体が、応神天皇を御祭神とする社なのである。

◯前回、ブログ『誉田八幡宮』を書いたが、字数制限などああって、随分と中途半端なものとなってしまった。それで、今回、ブログ『誉田八幡宮の歴史』と題して、その続きとしたい。誉田八幡宮のホームページには、次のようにある。

      誉田八幡宮の歴史

 誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。 応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。

 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。

 大和川、石川の流れる河内地方は、4世紀後半には日本と朝鮮半島と関係の緊張が高まるにつれて、瀬戸内交通の重要性が加わり、一層開発が進んだと考えられます。この機に有力氏族らに支えられた応神天皇は、河内地方を支配して、ここに新王朝を築かれたと思われます。
 秦の始皇帝陵などと共に世界でも屈指の大帝王墓-応神陵・仁徳陵-をはじめ、倭の五王時代の天皇陵はほとんどが、この河内、和泉地方につくられています。 応神天皇の崩御に際して御陵がこの誉田の地に築かれたのは、このように天皇ゆかりの地であったことと、4・5世紀代におけるこの地方が、重要な位置を占めていた地理的環境によるものであると考えられます。

 また、応神天皇の頃は、大陸、半島からいろいろな文化や技術が導入されて来ました。 中でも当宮に伝わる、応神天皇陵陪塚丸山古墳出土の馬具(金銅製透彫鞍金具)に象徴されるように、当時の金工、木工、革工などの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。

 

◯ただ、誉田八幡宮の所在地は、かなり特殊と言わざるを得ない。誉田八幡宮の鎮座地は、応神天皇御陵の南側になっていて、ちょうど、前方後円墳の後円墳部の南側に位置する。普通、前方後円墳の遥拝所は、前方墳前にある。そういう意味では、異常と言うしかない。

◯また、往時は、後円墳上に社があって、そこへお参りするのに、この地に誉田八幡宮が鎮座ましましたとも言う。しかし、応神天皇御陵は天皇の御陵なのである。その御陵上に登ること自体が考えられない。それとも、そういう私たちの考え自体が新しいものなのだろうか。

◯ウィキペディアフリー百科事典は、、次のように案内する。

      誉田八幡宮

誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、大阪府羽曳野市誉田にある神社旧社格府社誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の南に隣接して鎮座する。

社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している。なお、この地は応神天皇陵(誉田御廟山古墳)がある地であるが、応神天皇が幼少の頃に居住していたところでもあり、また、皇后仲津姫はこの地を治める誉田真若王の娘でもあり、応神天皇にとって特別なゆかりのある地である。

 

◯仮に、誉田八幡宮が最古の八幡宮なら、全国の八幡宮の総本社となるはずである。そういう話を聞いたことが無い。普通、八幡信仰の起源は宇佐八幡宮とされる。八幡信仰が応神天皇を御祭神としたことから、こういう伝承が生まれたのではないか。

◯ただ、八幡信仰の起源が九州であることは間違いない。八幡信仰を遡ると、英彦山に達する。その御祭神も、もとは姫神信仰であって、応神天皇ではない。姫神信仰が神功皇后とともに北上し、応神天皇信仰へと変容したものと思われる。

◯もともと、神功皇后が奉仕する神は八幡宮ではなくて、住吉三神であることにも、十分、留意する必要がある。八幡宮は新しい神様であって、住吉三神は、日向国生まれの古い神様である。