長谷寺:俊成碑・定家塚 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯普通、長谷寺詣ででは、仁王門から登廊を登って本堂に参詣し、その後、本堂の左手の開山堂へと下って行く。今回は、定家塚・俊成碑に惹かれて、本堂の右手の方へ下って行った。坂が急なので、道はいろは坂の道となっていた。

◯道の途中に、まずあったのが『二本の杉』である。前回その『二本の杉』については触れた。

  ・テーマ「京都奈良大阪を歩く」:ブログ『二本の杉』

 

◯その『二本の杉』の先に見えるのが、『俊成碑・定家塚』になる。インターネット検索では、次のページがヒットした。

      歩く・なら

      ますます訪ねたくなる奈良

    古くから人々を魅了する花の御寺 長谷寺を当時に思いを馳せて歩く

 「下登廊」の途中、「宗宝蔵」と「月輪院」の間の小道を東(右)へ曲がってしばらく歩くと、「二もとの杉」に辿り着く。二本の木の根元が重なり、高くそびえ立っているこの杉は、『古今集』に「初瀬川古川のべにある二本(フタモト)ある杉」と登場したり、『源氏物語 玉鬘(タマカズラ)』に「二本の 杉の立ちどを 尋ねずは ふる川のべに君を見ましや」と歌われたりと、当時から知られていた。

 「二もとの杉」からさらに奥へ進むと、鎌倉時代初期の歌人・藤原俊成と、その息子であり『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の撰者である藤原定家を供養する石碑「藤原俊成碑・定家塚」がある。藤原定家は、『年も経ぬ いのるちぎりは 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ』と歌を詠んでいる。なお、古くは長谷寺の参道入口は、この付近にあったという。「二もとの杉」周辺では、2~3月に梅や椿を鑑賞できる。

 

◯長谷寺の登廊ができたのは、後一条院の御代(1016〜1036)だとする。そのことについては、ブログ『登廊』で詳しく説明済みである。したがって、二本の杉や俊成碑・定家塚のある、この辺りが参道だったのは、その前のころと思われる。それは本堂の建つ様からも、想像されることである。

◯定家塚がここにあることは、

  年も経ぬ いのるちぎりは 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ

        藤原定家:「新古今和歌集」恋一一四二

和歌が関係している。

◯この定家和歌は、たぶん、「古今和歌集」の次の和歌の本歌取りであることは間違いない。

  初瀬川ふる川野辺に二本ある杉 年をへてもまたもあひ見む二本の杉

定家は、初瀬川を初瀬山に、「またもあひ見む二本の杉」を「尾上の鐘のよその夕暮れ」に置き換えて詠んでいる。なかなか趣向を凝らした名歌である。

◯あわせて、定家が

  憂かりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを

        源俊頼朝臣:「千載和歌集」恋七〇八

和歌を念頭に入れていることも間違いない。

◯この和歌は定家が百人一首に採った和歌である。長谷寺と言えば、定家にはこの和歌が最も身近だったのではないか。俊頼が極めて激情的なのに対し、定家があくまで冷静なのに驚く。なかなか歌人も大変である。