◯前回、ブログ『平家物語と弁才天信仰』を書いて、「平家物語」が載せる『徳大寺厳島詣』の話を案内した。実は「平家物語」はその前、『大納言死去』の冒頭に、次のように載せている。
さる程に、法勝寺の執行俊寛僧都、平判官康頼、この少将相具して、
三人薩摩潟鬼界が島へぞ流されける。彼の島は、都を出て遥々と浪路を
凌いで行く所なり。おぼろけにては舟も通はず。島にも人は稀なり。を
のづから人はあれども、此の土の人にも似ず。色黒うして牛の如し。身
には頻りに毛生ひつつ、云ふ言葉も聞き知らず。男は烏帽子もせず、女
は髪も下げざりけり。衣裳無ければ人にも似ず。食する物も無ければ、
只殺生をのみ先とす。賎が山田をかえさねば、米穀の類も無く、園の桑
を採らざれば、絹帛の類も無かりけり。島の中には高き山あり。鎮へに
火燃ゆ。硫黄と云ふもの満ち充てり。かかるが故に硫黄が島とも名付け
たり。いかづち常に鳴り上がり、鳴り下り、麓には雨繁し。一日片時、
人の命堪へてあるべき様もなし。
◯これが「平家物語」が案内する硫黄島である。あまりの書き様に、驚き呆れる。当古代文化研究所では、これまで、六回、硫黄島を訪問している。確かに、おどろおどろしい島であることは、間違いない。しかし、南海の孤島で、素晴らしく美しい島でもある。
◯島には、硫黄島三岳が屹立している。
・硫黄岳(703m)
・矢筈岳(349m)
・稲村岳(236m)
あまつさえ、硫黄島の頂上からは、常時、白い噴煙を揚げているのだから、尋常の風景では無い。これこそが、枕詞『八雲立つ出雲』の風景なのである。
◯少なくとも、江戸時代までは、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
と言う出雲八重垣が、この硫黄岳山頂に存在したことを、江戸時代の「三国名勝図会」が記録している。弁才天信仰の起源は、この硫黄島まで、遡ることができる。
◯ある意味、俊寛僧都の鬼界が島流罪は、弁才天信仰の思し召しと言うしかない。その弁才天を信仰していたのが、
六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公
なのである。その清盛が、厳島神社の弁才天について、
我が崇め奉る御神
と述べていることからも、そのことは確認することが出来る。
◯その後に続くのが『康頼祝言(のりと)』であり、『卒塔婆流』であることは言うまでもない。なかなか「平家物語」はよく出来ている。何故なら、硫黄島で流した卒塔婆が安芸の宮島に流れ着いたと言うのだから。常識的には、あり得ない話である。
◯その後、「平家物語」では、『赦文』、『足摺』、『少将都帰』、『有王(俊寛僧都死去)』と続いて行く。これで安芸の宮島の記述は終わりかと思うと、すぐに高倉上皇の『厳島御幸』へと続く。実は、硫黄島から安芸の宮島へと続くのは、弁才天信仰であることが判る。
◯まだまだ、「平家物語」の弁才天信仰は続く。経正の『竹生島詣』は、壽永二年(1183年)卯月十八日のことであった。
経正、明神の御前についゐ給ひつつ、「夫れ、大弁功徳天は往古の如来、
法身の大士なり。弁才妙音二天の名は格別なりと言へども、本地一体に
して衆生を済度し給ふ。一度参詣の輩は、所願成就円満すと承はる。た
のもしうこそ候へ。」とて、しばらく法施まいらせ給ふに、やうやう日暮、
ゐ待の月さし出でて、海上も照り渡り、社壇もいよいよ輝きて、まことに
おもしろかりければ、常住の僧ども、「聞こゆる御事なり。」とて、御琵琶
をまいらせたりければ、経正是をひき給ふに、上玄石上の秘曲には、宮の
うちもすみわたり、明神感応にたへずして、経正の袖の上に白龍現じてみ
え給へり。忝なくうれしさのあまりに、泣く泣くかうぞ思ひ続け給ふ。
千早振る神に祈りのかなへばやしるくも色のあらはれにける
◯すぐ目の前に、木曽義仲の大軍が押し寄せて来ていると言うのに、何とも優美な話である。平家が滅びると言うのも、頷ける。すでに清盛が亡くなって二年になろうとしている時である。急激な変革の時代であったことがよく判る。
◯もともと、弁才天信仰と言うのは、そういう時代のものであったことに留意すべきである。古い時代の、何とも優しい偶像が弁才天女なのである。まずもって、財宝とか金儲けなどには、不縁の神様が弁才天なのである。
◯先日、2024年6月1日から3日に掛けて、屋久島のシャクナゲを見て来た。途中、久し振りに、硫黄島を遠望することができた。日本弁才天信仰の故郷である。何とも、懐かしかった。また、近いうちに、何とかして、出掛けてみたい。