大黒天信仰 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯都七福神のホームページでは、次の順序で、七福神を案内している。 

  ①京都ゑびす神社   ②松ヶ崎大黒天(妙円寺)   ③東寺(教王護国寺)
  ④六波羅蜜寺   ⑤赤山禅院   ⑥革堂(行願寺)   ⑦黄檗山萬福寺

◯つまり、えびす神の次が大黒天となっている。これは、もともと、七福神はえびす神と大黒天の二つが最初に祀られていたと言うことと関係するように感じた。当古代文化研究所では、そういう様子を鹿児島県や熊本県の島々で、何度も確認している。

◯そういう大黒天について、コトバンクでは、次のように案内している。

      大黒天

摩訶迦羅と音写される。密教では,胎蔵界曼荼羅の最外院北方に属し,自在天の化身として,3面6臂で忿怒の黒色形相をもつとされる。最澄が日本に伝え,比叡山に祀ったのが最初。後世では,七福神の1つとして頭巾をかぶり,右手に小槌,左手に袋を持ち米俵の上に乗っている姿が通常のものとなり,福徳の神として民間で尊ばれている。また大国と混同し,オオクニヌシノミコトと同一化して尊ぶ風習も行われている。武装忿怒の大黒天像は,滋賀明寿院に伝わる半跏像など,藤原時代の作例がいくつかあるが,多くは袋を背にかけた袍衣の姿で,福岡観世音寺に藤原時代の遺品が伝わる。鎌倉時代以後は滋賀聖衆来迎寺のものなど,大部分のものが七福神の1つとしての姿をとり,江戸時代にいたるまで急激に増加した。

      大黒天

仏法の守護神。
元来はヒンズー教の神で,密教では大自在天の化身。サンスクリットでマハーカーラ。日本の民間信仰では大国主(おおくにぬしの)命と合一し,頭巾をかぶり,袋を背負い,打ち出の小槌をもつ福の神として,七福神の一神となる。

 

◯別に、ウィキペディアフリー百科事典では、次のように案内する。

      大黒天

大黒天(だいこくてん、: Mahākāla、[マハーカーラ]、音写:摩訶迦羅など)とは、ヒンドゥー教シヴァ神の異名であり、これが仏教に取り入れられたもの。七福神の一柱。

ヒンドゥー教シヴァ神の化身であるマハーカーラは、インド密教に取り入れられた。“マハー”とは(もしくは偉大なる)、“カーラ”とはあるいは(暗黒、闇黒)を意味するので偉大なる暗黒(闇黒)の神『大黒天』と名づく。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である。

日本には密教の伝来とともに伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、特に中国においてマハーカーラの3つの性格のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられた。密教を通じて伝来したことから初期には主に真言宗天台宗で信仰された。インドでも厨房・食堂の神ともされていたが、日本においては最澄が毘沙門天弁才天と合体した三面大黒を比叡山延暦寺の台所の守護神として祀ったのが始まりという。後に大国主神と習合した。室町時代になると日蓮宗においても盛んに信仰された。「大黒さん」として親しまれている。

◯都七福神では、松ヶ崎大黒天(妙円寺)で祀られている。 その松ヶ崎大黒天(妙円寺)にあった案内板には、次のように載せる。

   松ヶ崎大黒天(妙円寺)は、松崎山妙円寺と号する、元和二年

  (一六一六)日英上人の開基にかかる日蓮宗の寺である。

   大黒堂にまつる大黒天は、伝教大師の作、日蓮聖人が比叡山で

  修行中に開眼したものといわれている。

◯つまり、松ヶ崎大黒天(妙円寺)の大黒天は、もともと比叡山にあったものと言うことになる。それを山下に下ろして祀ったの松ヶ崎大黒天(妙円寺)だと言うことである。伝教大師、最澄が大黒天を比叡山に祀ったことは、よく知られている。

◯ただ、上記説明にあるように、

   日本には密教の伝来とともに伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、

  軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、特に中国においてマハーカーラの3つの

  性格のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられた。密教を通じて

  伝来したことから初期には主に真言宗天台宗で信仰された。

と言う流れを無視することはできない。

◯もともと、七福神はえびす神と大黒天の二神だったとされる。そのえびす神と大黒天が出雲神として斎き祀られていることにも、十分留意する必要がある。つまり、大黒天の故郷も、えびす神同様、『肥国:建日向日豊久士比泥別』であることが判る。

◯当古代文化研究所では、そういうふうに考えている。実際、鹿児島県や熊本県の諸島で、何度も、そういうえびす神・大黒天を見ている。