大徳寺:龍源院・黄梅院・養徳院 | 古代文化研究所:第2室

古代文化研究所:第2室

ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2023年1月29日に、京都、紫野の大徳寺を訪れた話を長々と書いている。ブログ『大徳寺一久』から始めて、前回の『霊山徳禅寺』までで、10個ものブログをものしている。大徳寺は大寺である。今回で、事前に見学した塔頭の案内がやっと終了する。

◯今回は、まず、龍源院の案内から。ウィキペディアフリー百科事典には、次のように載せる。

      龍源院

龍源院(りょうげんいん)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派寺院大本山大徳寺塔頭本尊釈迦如来大仙院を本庵とする大徳寺北派に対して、南派の本庵とされている。

文亀2年(1502年)に東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登守護畠山義元豊後守護の大友義長周防守護の大内義興らが創建した。創建年次については永正元年(1504年)など諸説ある。大徳寺の塔頭の中では最も古いものである。

 

◯龍源院は、庭で有名らしい。次のページがヒットした。

      龍源院

大徳寺の塔頭寺院「龍源院」(りょうげんいん)は大徳寺境内の南部に位置し、塔頭の中では最も古いという室町時代中期の創建。能登・畠山家、周防の大内家、豊後の大友家といった戦国武将家の保護により開かれ、創建当時に完成した本堂(方丈)、唐門・表門は国指定重要文化財。室町時代に相阿弥により作庭された苔庭をはじめ複数の枯山水庭園があります。

妙心寺、東福寺などと並んで京都を代表する大きなお寺の一つ「大徳寺」が開かれたのは鎌倉時代。室町時代には一休さんで知られる一休禅師が住職を務めるなど、室町時代以降に大寺院に発展。現在もその境内に24を数える寺院があり大きな寺町を形成しています。

その一つである「龍源院」は大徳寺の中では重森三玲の庭園の見られる「瑞峯院」、特別名勝の「大仙院庭園」とともに常時拝観可能な寺院。

 

◯続けて、黄梅院。ウィキペディアフリー百科事典が案内する黃梅院は、次の通り。

      黃梅院

黄梅院(おうばいいん)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派寺院大本山大徳寺塔頭本尊釈迦如来。通常公開されている。また、春と秋には特別公開される。

永禄5年(1562年)に織田信長が父・信秀の追善供養のため、春林宗俶大徳寺98世)を迎えて創建したのに始まる。当初は黄梅庵と名付けられた。名前は弘忍大満禅師ゆかりの地である現在の中国湖北省黄梅県破頭山の東禅寺に由来する。

 

◯続けて、養徳院。ウィキペディアフリー百科事典が案内する養徳院は、次の通り。

      養徳院

養徳院(ようとくいん、永正12年(1515年) - 慶長13年10月26日 (旧暦)1608年12月3日))は、戦国時代室町時代後期)・安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性、尼僧。池田恒利の妻、織田信秀の側室。実名は不明で、養徳院は院号、法名は桂昌。

織田信長乳母となってからは大御ち(おおおち)様とも呼ばれた。

 

◯養徳院は、何気ない塔頭のような気がする。しかし、その実、播磨国姫路藩池田家の始まりが、この養徳院であることを見逃してはなるまい。こういうところが大徳寺の凄さである。