唐招提寺:芭蕉句碑 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

○俳聖、松尾芭蕉に、

  若葉して御目の雫拭はばや

の句がある。前回案内した開山堂の前に、その芭蕉の句碑が建っている。芭蕉は開山堂で、唐招提寺開山の鑑真和上の御姿を拝したからであろう。

○唐招提寺のホームページには、松尾芭蕉句碑の案内があった。

      松尾芭蕉句碑

   東室の北側の開山堂手前に松尾芭蕉の句碑があります。

   貞享5年(1688)ここで、鑑真和上坐像を拝した際に芭蕉が詠んだ

  「若葉して御目の雫拭はばや」の句が刻まれています。

 

○この句は、「笈の小文」の中に掲載されている。その「笈の小文」について、コトバンクでは次のように案内している。

      笈の小文

芭蕉(ばしょう)の俳諧(はいかい)紀行。1687年(貞享4)10月江戸をたち、鳴海(なるみ)(名古屋市緑区)、保美(ほび)(愛知県田原(たはら)市)を経て郷里伊賀上野(三重県伊賀市)で越年、2月には伊勢(いせ)参宮、3月には坪井杜国(つぼいとこく)との2人旅で吉野の花見をし、高野山(こうやさん)、和歌浦(わかのうら)を経て4月8日奈良に到着、さらに大坂から須磨(すま)、明石(あかし)まで漂泊した際の紀行文で、成立年時は1690年(元禄3)晩秋から翌年夏ごろまでの間と推定される。1709年(宝永6)に河合乙州(かわいおとくに)が『笈の小文』の書名で出版して世に知られた。冒頭の風雅論のほか、紀行文論、旅行論などに芭蕉の芸術観をうかがうことのできる重要な作品である。本書は内容的にかならずしもまとまった作品とはいいがたい点があるので、未定稿説や、旅中の草稿類の乙州編集説などもある。

 

○別に、山梨県立大学の次のページも詳しい。

      笈の小文

      (貞亨4年10月25日~貞亨5年4月23日)(芭蕉44、5歳)

『笈の小文』は、貞亨4年10月、伊賀への4度目の帰郷に際して創作された作品を集めて一巻としたものであるが、『奥の細道』のように芭蕉自身が書いた旅行記ではない。これは、その後芭蕉自身が書いた真蹟短冊や書簡などをもとに、芭蕉死後大津の門人川井乙州によって編集されて成ったものである。しかし、この集はまた実によくできていて、『奥の細道』にも十分に匹敵する文芸作品となっている。これは、集内の句を別にすれば芭蕉が『奥の細道』以後も、詞書などの句文等に推考しておいたためである。
 この旅は、亡父三十三回忌の法要に参列するためであったが、それ以上に売れっ子芭蕉にとって名古屋・大垣などの門人の招請をもだしがたく、彼らの要求に従って行った面が多分にある。それだけに自信と希望に満ちた旅でもあった。「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」の気分は、『野ざらし紀行』の「野ざらしを心に風のしむ身かな」のそれとは雲泥の差であった 。

この旅そのものは、貞亨4年10月25日に江戸深川を出発し、貞亨5年8月末に江戸に戻るまでの1年半に及ぶ長期のものであった。 (ただし、旅の最後木曽街道から北国街道までの間は『更科紀行』と呼ばれている。これも、乙州の編集の結果である。) 

なお、本集には、『笈の小文』の他さまざまな呼称がつけられている。 『大和紀行』・『卯辰紀行』・『芳野紀行』・『大和後の行記』・『須磨紀行』・『庚午紀行』(支考編)など多数にのぼる。

      唐招提寺

   招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ御目のうち

  塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、

    若葉して御目の雫拭はばや

 

○流石、碩学の芭蕉である。唐招提寺なら、鑑真和上しか無いことをよく理解している。そして、鑑真和上の尊像を拝して、句を詠んでいる。俳諧は挨拶、切れ字、季語から成り立つ。その三つが見事に具現されているのが、

  若葉して御目の雫拭はばや

句に他ならない。

○この句が作られたのは、貞亨5年4月になる。この句の前が、灌仏会の、

  灌仏の日に生れあふ鹿の子哉

であるから、4月8日以降になる。また、卓袋宛の書簡に拠れば、4月13日には大阪に着いている。

○したがって、この句が奈良、西ノ京、唐招提寺で詠まれたのは、貞亨5年4月8日以降、13日前と言うことになる。大阪までの道程を考えると、芭蕉の唐招提寺参拝は、貞亨5年4月10日あたりだろうと推測される。