神代三山陵 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

○前々回に『神代三山陵の先坣僑位』の話をし、前回、『世界遺産:紀伊山地の霊場と参詣道』の話をした。よくよく考えてみたら、肝心の神代三山陵について、何も話していない。それでは話が繋がらない。

○それで、今回は、神代三山陵について、考えてみたい。しかし、神代三山陵の問題は奥が深いし、なかなか面倒でもある。当古代文化研究所では、神代三山陵について、すでに詳細な検証を加えている。

  ・テーマ「神代三山陵の研究」:16個のブログ

  https://ameblo.jp/sisiza1949/theme-10110399718.html

○したがって、ここでは、その検証を踏まえて、結論だけを紹介するに止めたい。まず最初に、現在、宮内庁が神代三山陵として管轄するものから案内したい。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○これは明治七年(1874年)に認定されたものだが、極めて政治色の強いものとなっていることが気になる。薩摩国国府と大隅国国府の近くに神代三山陵が存在することなど、あり得ない。まずは、実際、何度も神代三山陵を訪れ、そういうことを確認するに如くはない。

○しかし、神代三山陵を考えるなら、白尾國柱を忘れるわけには行かない。寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」で、白尾國柱は神代三山陵を次のように案内している。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

神代三山陵を考える上で、白尾國柱の判断は尊重されるべきである。白尾國柱は神代三山陵の比定地を考える上で、薩摩国大隅国中を隈なく探索している。結果、生まれたのが「麑藩名勝考」である。「麑藩名勝考」は名著である。私たちが「麑藩名勝考」に教わることは多い。

白尾國柱の研究を継承したのが、上記、当古代文化研究所の神代三山陵の研究」である。それに拠れば、真実の神代三山陵の比定地は次のようになる。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○いまどき、神代三山陵の研究など、何にもならないとおっしゃるかもしれない。しかし、それは全然違う。神代三山陵比定地が確定すれば、天皇家の故郷が判る。すなわち、日本が何処から始まったかが判る。そういう意味で、神代三山陵の研究は大事なのである。

○日向国の中心が何処だったか。そういうことも知らないで、日本神話を語ったところで、何にもならない。神話で舞台ほど、重要なものはない。そういうことを完全に無視して神話は語れない。学者先生は、そういうことを何もご存じない。